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絓秀実 『21世紀の問題を考える』 報告者 chiki


「文学の終わり」から「イラク」「2ちゃんねる」へ――現代の課題とは何か!?

■2004年4月25日、世間では「イラク3邦人人質事件」が一応の「解決」を迎えつつも様々に意見が交錯している中、東京コミュニティカレッジ(TCC)の総合文化講座で絓秀実さんによる「21世紀の問題を考える」と題された講義が行われた。その模様を簡単にレポートします。文字起こしではありませんので、あくまで一参加者の印象記として参照してください。

 


■どうも、絓秀実(すがひでみ)と申します。今日は急遽、僕がTCC所長の柄谷行人さんの代わりに話すことになりまして。期待していた方は申し訳ありません。去年、この総合文化講座で柄谷さんが「近代文学の終焉」という講義を行い、その時の話を元に、今度発売された(2004年5月号)『早稲田文学』にて「近代文学の終わり」という文集を掲載なされました。今日僕が話そうと思うのは、その柄谷さんの文章を枕にしまして、「終わった」後に何が起こったことかということを僕の関心からお話したいと思います。

■一応、柄谷さんのお話を簡単にまとめてみます。柄谷さんは講談社文庫にも入っている『日本近代文学の起源』という本を書いております。元号で言えば明治20年前後、特に10年代後半に坪内逍遥『小説神髄』、二葉亭四迷『浮雲』が登場しました。ご存知のように、『小説神髄』は理論書、『浮雲』は言文一致体を創始した作品であると言われています。「言文一致体」を誰が創始したかは現在諸説ありますが。

■坪内逍遥自身がその著書の中で「小説の近代化」を主張し、「ヨーロッパ並みの小説を目指し、江戸の戯作のような…『南総里見八犬伝』のようなものではなく、もっと風俗や人情をリアルに描く写実主義的な小説がなければいかーん!」というようなことを提唱しています。坪内逍遥自身、既に「言文一致体がいい」ということを言っておりますが、彼自身が『小説神髄』の理論を実作で示したという『一読三嘆当世書生気質』は、まだ言文一致体ではありませんでした。この理由にも諸説ありますが、明治10年代後半くらいでは、まだ庶民は言文一致体では読めないんじゃないか、ということで所謂「雅俗折衷体」という文体で書いた、と言われています。

■ところが二葉亭はその本を読み――付箋をいっぱい貼って逍遥を訊ねたと言われています――、「逍遥先生、悠長なこと言ってられないよ。今すぐ書かなきゃダメだよ」とか言って『浮雲』を逍遥と連名で出したわけです。柄谷さんはいわゆる「起源」に何が起こったのかということを、「内面」や「風景」という制度を発見したとのだ、いう風に、フーコー『セクシュアリティの歴史』やデリダ『グラマトロジーについて』を念頭に論じられた訳です。

■ベネディクト・アンダーソンという人の『想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』という本がございます。お読みの方が多いと思うので釈迦に説法かもしれませんが、再説いたしますと、小説というのが国民国家の形成に関わるのではないかという訳です。「ナショナリズム」は、今でも色々と問題になっていますね。小泉が「自己責任」とかなんとか言っていますが、あれもある種の「ナショナリズム」なんでしょうな(笑)。

■「ナショナリズム」には色んな訳がありまして、昔は「国家主義」とか「愛国主義」などと言いましたが、この本を読んだ人は分かるように、むしろ「国民主義」と訳すのが適当です。「国家主義」でも間違いではありませんが、「nation」は「国家」という意味と同時に「国民」という意味もありまして、ここでは「国民主義」の方が相対的に妥当性が高い。『想像の共同体』は、その「国民」という概念がいつ、どのように生まれたのかを論じた本ですね。アンダーソンによれば、「国民」とは「近代小説」を通じて形成されたのだということです。例えば落ち葉がヒラヒラおちていると、それがあたかも自分の失恋した心を表しているように見える(笑)。そのように、「風景」や「内面」を近代小説が作りあげたというのがアンダーソンの説です。ナショナリズム=ネイション主義というのは、まさに近代小説と出版資本主義(プリントキャピタリズム)が作りあげたと。

■まぁ、やや横槍を入れておきますと――既にお読みになった方は「なかなかうまいことを言っているなぁ」と思ったかもしれませんが――どの国がこれにあてはまるんだと思いませんか?(笑)。あてはまるのは日本だけじゃないか、と。アメリカなんて、小説が国民国家を作りあげたなんてほとんど疑わしいですし、今ですら英語が出来ない人はごろごろいますからね。

■まぁ、これが柄谷さんの話の要約だとしたとき、どうも現在において近代文学がうまく機能しないということがあるわけです。これは柄谷さんに限らず皆さんお感じになっていると思います。柄谷さんは「近代文学の終わり」で、サブカル問題に触れていますが、最近で言えば大塚英志『サブカルチャー文学論』というのがあります。特に70年代、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』が出たとき、江藤淳さんがちょっとヒステリーを起こしまして――まぁ江藤さんはもともと××で○○がごにょごにょ(笑)――「これはサブカルチャーだ!文学じゃない!」と言ったわけです。田中康夫『なんとなく、クリスタル』や山田詠美の一連の作品――彼女は元々エロ漫画家ですね――吉本ばなな、村上春樹。色々例は挙げられますが、僕なんかがよく挙げた例では中上健次移行、70年代くらいから「文学史」という考え方が機能しなくなったんですね。例えば「内向の世代」と呼ばれている人たちがいますね。古井由吉さんとか――古井さんだけで他はいらないんですが――黒井千次・小川国夫・阿部昭などを、小田切秀雄というあまり頭の良くない批評家が「内向の世代」と名づけて定着したわけです。ただ、それ以降登場した作家は――春樹でも龍でも康夫ちゃんでも詠美ちゃんでもいいんですが――何派、というのはありますか?  例えば受験などでは島崎藤村=自然主義、谷崎純一郎=悪魔派、耽美派、志賀直哉=白樺派、中野重治=プロレタリア、野間宏=戦後派、安岡章太郎=第三の新人、とか答えさせられますよね。それらは教科書にも載ってるわけです。ところが中上健次、金井美恵子は何派、とかないでしょう。そういったものが機能しないと、基本的に文学ってのは終わりなんです(笑)。

■柄谷さんがおっしゃるのは全くその通りなんですが、一方でこのような言説はなんども繰り返されている、ということも抑えておくべきでしょう。誰でもいいんですが、例えばマルクスが19世紀半ばに『フォイエルバッハ・テーゼ』で「哲学者は終わりで、これからは現実を変えなきゃいかーん」ということを言ってます。柄谷さんもほぼ同じ(笑)。ところが、このマルクスの言説も、ヘーゲルが同じ事を19世紀初頭に既に言っているんですね。こっちの方が柄谷さんに近いんですけど。ヘーゲルの言うことは癪ですが大体当たってるんです。『美学講義』で、ヘーゲルは近代というのは小説の時代だと言ってるんですね。その前は詩の時代だったけど、近代ではポリフォニックな、雑なものが必要になると。「俺の哲学が出てきたことで哲学はアウフヘーベンされるんだー!」とヘーゲルは言いたいわけでして(笑)。皆さんはまさに小説から現代思想的なものの流れの中にいるとも言えますが――ニューアカデミズムとか、ヘーゲルの図式に則してますね(笑)。

■それでも、近代文学は「もうだめぽ!」みたいな感じがあります(笑)。その手の言説はリアリティがあるわけです。余談になりますが、この間3人じゃなくて2人が、「3バカ」といわれている方じゃなく「2バカ」といわれている方――僕はバカだと思っていないですよ、そう言われている、というだけですから――つまり渡部さん、安田さんが帰ってきたとき――そういえば小西誠がいつもそばにいましたね。余談ですが小西は68年に佐渡で反戦決起した反戦自衛官で…大西巨人『神聖喜劇』を読んで決起したんですよ、小西は。『神聖喜劇』は東堂太郎という主人公が軍隊内で抵抗するって話ですが、近代文学の傑作です、柄谷さんもそう言ってます。僕もそう思う。5本の指には入る、一巻しか出てないうちにそれやったんだからとんでもないことだと思いますが――バカな奴が「だめぽ」「ぬるぽ」とか書いた紙を持って羽田に言ってましたね(笑)。バカだなぁ、2ちゃんねらーは(笑)。あれ、何の話をしてたんだっけな(笑)。

■そうそう、中上以降はダメだよね、という話ですね(笑)。阿部和重君の『シンセミア』が話題になってましたが、一方で桐野夏生『残虐記』とかが挙げられたりする。桐野はなかなか能力のある作家だと思いますよ。一応エンタメ系の作家だった。エンタメと純文学の差がなくなったと昔から言われてますが、それでも昔は線があったわけです。宮部みゆき、高村薫とかでも、いくらレベルが高いといわれても、そこには線があった。でも、桐野あたりになると線は薄れてきますよね。桐野さんはいろんな人と対談してるけど、そして阿部君とも対談してたけど、阿部君よりいいんじゃないのかなと(笑)。『シンセミア』じゃまだ弱いんじゃないかな、と。大西巨人『深淵』は、桐野的なものよりある種レベルが違うものだという気が僕はしているんですが。大西さんは最後の純文作家だという気がしないでもない。

 

■さて、とりあえずここまでまとめてみましたが、今日は柄谷さんとは別の視点から近代文学の誕生と、現代の状況をちょっとお話しましょう。

 

■普通の文学史の教科書だと、坪内逍遥『小説神髄』は小説の近代化を提唱したもの、ということになっていますが、実はそう簡単なもんじゃないんですよね。この当時というのは、言うまでもなく自由民権運動の真っ最中な訳です。自由民権運動って、トンデモナイ運動ですよね。西郷隆盛が征韓論に反対してゲリラしたわけなんですが、「自由民権」の運動が「韓国を征伐しろー!」ですから、とんでもないんですよ(笑)。で、坪内も政治小説を書いているわけです。つまり、改進党イデオローグのプロパガンダをしていたわけです。こう考えると、『小説神髄』も、自由民権運動の流れの中で書かれたと考えるのが常識だと思いません? 誰も言わないけど(笑)。

■さらに言えば、『小説神髄』(M18)より前にも(重要なことが)あるんですよ。小説は『小説神髄』が近代化の役目、と言われる。詩は『新体詩抄』(M15)ですよね。外山正一(教育学者)・矢田部良吉(植物学者)・井上哲次郎(哲学者)という、当時進歩的と言われた3人が書いたんですけど。『小説神髄』はこの『新体詩抄』を先行文献として挙げてるんですよね、ちゃんと。ただ、この『新体詩抄』を覗けば分かるんですけど、とんでもない本ですよ(笑)。この本は――国木田独歩も言っているんですけど――叙情詩と一緒に軍歌が載っているんですよ。「我は官軍我が敵は天地容れざる朝敵ぞ〜」という、後にも歌い継がれる、西南戦争を唄った外山正一「抜刀隊の歌」ですが、その2つが共存していたんですよ。独歩も「興ざめだ」とかなんとか言ってます。

■ただし、軍歌も叙情詩も、共存していてもおかしくないような雰囲気が当時あったんです。何故かというのは、当時の政治的状況を考えないと分かりません。何故この年に『新体詩抄』が出てきたのか、その前の年の問題を受けてるんだと思うんですよね。「国会開設の詔勅」が明治14年に大きな問題としてある。つまり、「国会を開いてあげる、憲法発布してあげる」というのが約束されたんです。となれば、自由民権運動はそこで終わりです。何故なら、自由民権運動の目的は「国会開設、憲法発布」を天皇に「お願い」することにあったのですから、天皇が「作ってやるよ」と言った時点で終わりなんですよ。そこで「祭」が終わったんです。

■自由民権運動に関わってきたのは、壮士と呼ばれる人々、つまり書生のことですが、「運動会」と称して歩きながらワーワー騒いで酒を飲んでいたわけです。ところが「祭」が終わった。木村敏的に言えば「ポスト・フェスティバル」ですよね。その後に『新体詩抄』、そして『小説神髄』が出てくるわけですが、そこで出てくるのは、本居宣長からくる「もののあはれ」ですよね。「ポスト・フェスティバル」、つまり「祭」が終わっちゃって、叙情詩的なものが誕生した、小説も「もののあはれ」だというようになった。これって、要するに「鬱病」ってことですよ。「鬱病」が「国民」だってことです。近代的なネイションステートというのは、壮士とか書生とかでワーワー騒いでいてはダメで、内面をもった近代的な人間じゃなきゃいけないと言った。それは「鬱病」的な個人になろうってことです。それを作るために文学があったわけですよね。柄谷さんも内面の発見と言っていますが、近代文学は「鬱病」的な個人を作ることだったんです。

■ところで、軍歌――というか、「抜刀隊の歌」は壮士の歌みたいなもんですが、明治のコンテクストの中では叙情詩的なものと、軍歌的なものが両方載っているのは奇異ではなかった。それが段々と「もののあはれ」とかになるわけですが、逍遥の失敗はタイトルからも分かりますよね「書生」が入っているんだから。書生=壮士で、そんなのはダメ(笑)。

■こう考えると、じゃ、現代の私たちは果たして「鬱病」を克服したのか、ということが問題ですよね(笑)。そういう意味では、現代は自由民権運動の始まりの時と似ているなと思うわけです。何故2ちゃんねるで――2ちゃん話ばかりで恐縮ですが――ウヨ厨みたいなのがウヨウヨしているかというと(笑)、自由民権運動と同じことをやってるんじゃないかと。拉致問題ってのは「征韓論」をやっていて、ウヨ厨どもは「憲法発布」を求めてるんでしょ? 今の日本国憲法はダメだ、と。「鬱だ鬱だ」とか言っている訳ですし(笑)。そういう意味で歴史は反覆しているんじゃないかなと。もちろん、文学的な課題なんていうのは、文芸誌でやらなくて2ちゃんねるでやればいいのであって、既成のメディアなんて2ちゃんねる、ネットに吸収されているわけですから。――ここまでで何か質問はありますか?

 

質問者:自由民権運動の目的が達成されて、「ポスト・フェスティバル」的なことが起こった、というのは、日本に限らないことなんでしょうか?

 

■限らないと思います。アンダーソンの本なんかもそう言っていますし、日本が当時そんなに遅れていたわけではないですから。漱石がロンドンに言ったとき、そこに国民文学がないと絶望して『文学論』を書いたわけですから。富山太佳夫とかも言ってますね。むしろ、日本はうまく出来すぎちゃった方ですよ。

■他に質問がないようなら、しょうがないから21世紀の話をしましょうか(笑)。そのうち文章で発表しようとしていることを話します。近代文学が役に立たないと皆が思い初めてきたとき、現代思想的なものが出てきたりした。でも、それも色々問題があるんですよね。最近は、若いジェネレーションによる現代史の再構築が、カルチュラル・スタディーズ的な形で盛んですね。その中で最近気になっているのがあるんですけど、現代史の読み直しを精力的にやっている小熊英二さんという先生がいますね。『民主と愛国』なんてリーダブルな本で、僕はほとんど司馬遼太郎じゃないかと思っているんですが(笑)、そのような本を出している方です。その方が最近、鶴見俊輔というご老体にインタビューした『戦争が遺したもの』という本があるんですね。上野千鶴子さんも一緒にインタビューしていて、そこそこ売れているみたいですが。

■僕はパーっと読んだんですけど、でも嘘ばっかなんですよ(笑)。ほとんど小熊先生の自己合理化じゃないかな、と。この問題はカルチュラル・スタディーズの問題にも関わるんですが。60年安保の時に、吉本隆明という人が6月行動委員会というところで、当時の中核を「三一書房」にあった、と鶴見が何度も言っているんです。ただ、ちょっと調べれば分かるんですが、当時の知識人界隈の雰囲気を知っていれば、それが間違っていることはすぐに分からなきゃいけない。6月行動委員会の中心は「現代思潮社」なんですが、何故か「三一書房」と言っているんですね。それをチェックできてないんですよね、2人(上野、小熊)とも。ちょっと調べれば分かるのに、これをノーチェックでいっている、というのが、今の歴史研究の欠陥を表しているんじゃないかなと。ネイティブ・インフォーマントに連絡しているんですが、他にも色々あるんですよ、ここでは言えないようなことも色々と(笑)。知り合いを通してもう伝えてはあるんですけど。でも一般では、小熊さんはよく調べている、とかいわれているんですよね。一方向からのバイアスがかかっているから、鶴見俊輔を合理化しようとして、もしくは『民主と愛国』と正当化しようという元に書かれているからというのもあるんですけど。これはちょっと問題です。

■ここで、前の話(イラク、文学の話)とつなげますと、それこそ政治的なものを再編成するディスクールは必要な時期にあるのかもしれない。そのときに、若い人はすぐに、非常にイージーな形でマスターナラティブ(大きな物語)を設定しちゃうんですよね。吉本とか、手に入りやすい本とか(笑)。それこそ、ガヤトリ・スピヴァクの「サバルタンは語ることが出来ない」という言葉を思い出さなくてはならない。本当は今でも聞きにいけるんですけど、小熊先生は口当たりのいいインフォーマントにしか聞いていらっしゃらない。サバルタンに聞きに行ってないんですよ。他にも色々あって、ここではまだ言えませんが、証拠がびしっと揃ったらそのうち公にするつもりです。

■そういう意味でも、文学的なものがうまく機能していない。「発掘」と称して既にあったマスターナラティブがちらほら出てきたりする辺りをみると、むしろ、悪しき意味での「文学」が蔓延っているのではないか、とも言えてしまうわけです。それでは今日はこの辺りで。

 

 






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