
御茶の水女子大学・ジェンダー研究のフロンティアのシンポジウム
プロジェクトD 理論構築と文化表象
「ジェンダー研究の理論と表象分析のいま―国家・資本・表象の共謀と攻防」 報告者 m*m
■2003年11月15日、お茶の水女子大学でジェンダー研究のフロンティアのシンポジウムが行われた。テーマは「ジェンダー研究の理論と表象分析のいま‐国家・資本・表象の共謀と攻防」である。その様子をレポートしよう。
テーマは「ジェンダー研究の理論と表象分析のいま‐国家・資本・表象の共謀と攻防」である。
司会・発題の竹村和子によれば近代は公的領域と私的領域の二元論に性を配置し、また性の二元論に比喩化しながら文化や法、経済を整備し国家、国民形成をしてきた。性の比喩化はまさに表象の力によるものであり国家装置として働く。その表象の流通は資本という無限な運動によりおきるが資本はグローバル化により形成を目指すはずの国家の境界を越えていく。表象はシニフィアンとシニフィエのズレを引き起こし規範化を逸脱する可能性をはらんでいる。現実のポスト近代の状況は性の二元論が見えにくく複層的かつ分断した表象になってきている。このような状況の中で国家・資本・表象の共謀と攻防を視覚・社会・文学の表象についてを発表していただく。
天野知香
■美術研究にフェミニズムを取り込む天野知香は「視覚「芸術」における身体とジェンダー」というテーマで発表した。「芸術」のカノンが、見る=男の画家・権威・主体/見られる=裸の女・支配・客体という非対象なヘテロセクシズムとミソジニーの欲望のまなざしで男性主体や家父長制の正当化すること、さらにアールデコやモダニズムは西欧(男性支配の欲望のまなざし)/非西欧(女性化した表象)という帝国主義支配の理念を表象してきたことを指摘する。それに対して女性作家によるフェミニスト的な表象はモダニズムの統一性や視覚の優位性を否定しスカトロなどアブェクトを提示したりマージナルに他者化されてきた女性の身体と欲望の取り戻しやミソジニーやフェティシュを切り崩そうとする試みなどで身体の多様化や複合による多様なアイデンティティを提示している。これらの表象は規範的な物語の再生産の読み直しでありそれまで排除されていたものに目を向け存在しなかったものを批評するアプローチであり主流の美術史を内側から解体し脱構築する契機を持つ。しかし視覚表象はもちろん意図通りに伝わるのではなく言葉に還元できない曖昧さを持ち新たな抑圧を引き込む危険性をはらむ。見る側にとっても同様な危険性がはらまれついるがしかしアクチュアルで不確かな「私」から表象をとらえ直し続けることが必要であろう。
■社会学者で近代国民国家形成における家族・女を研究する牟田和恵は、「近代国民国家とジェンダー」をテーマに発表し近代天皇制とジェンダー秩序の関わりを指摘した。
■若桑みどりの研究で「皇后」像の構築が明治において重要視されていたことが明らかにされているが、現在公私分離されて理解されている性別役割分業規範が皇后という公的な場において作られ、その「女性」役割は皇后によって正統化/権威を付与されたといえる。
■一般的に非性的と考えられる天皇をもこのように性的二元論により構築されている。戦後の天皇制は「家庭」イメージによって語られる。現皇后美智子妃による「民主的」皇室、「良き母」「良き家庭」のイメージ作りはマイホーム天皇制といえる。さらに現皇太子の子育てに参与する「良き父親」および愛子内親王誕生前後に浮上した「女性天皇論」はあたかも「男女共同参画天皇制」とでもいうような母であり家庭も仕事も男女共同する理想的君主かのようである。女性君主に関するフェミニストの賛否は論者によって異なるが、しかし家族イメージに基づく天皇制はセクシュアリティ・セックス・ジェンダーを同心円上に配置した、ヘテロセクシズムの温床である。天皇制はジェンダー秩序の維持をし女性君主によって「女性ならでは」の特性を付与されジェンダー秩序が強化されるだろう。つまり「正しいセクシュアリティ」の範例としての皇室を演じ続ける。ゆえにヘテロセクシズムの温床である天皇制と女性君主にフェミニストは反対する。
■男女共同参画社会は男女の共働きペアを自明、前提としているかのようである。そもそも女性差別撤廃条約に基づく法律がデフレや年金や少子化対策にすり替えられている。男女共同参画がジェンダー秩序・ヘテロセクシズムの温存をはかる悪夢といえよう。それでも男女共同参画社会の実現はフェミニストの責務である。そこでは新しい「家族」と国家の関係を考えていく必要がある。ファインマンによると国家は「核家族」の家族単位を保護し、必然の依存(子・障害者・介護)と「ケア役割」を担う「二次的」依存(女性であることが多い)の二つの依存を「自然な家族」に隠ぺいしているという。ファインマンは保護を「核家族」家族単位から「母子」対(メタファーとしての「母子」により依存の可視化)へ変えることで現在の家族が、国家に支えられた家父長制の中で延命していることを暴き出すことを目的にしている。男女共同参画も父と母の共同を自立の理想は家父長制の家族延命といえよう。ファインマンの提案は示唆的である。
吉見俊哉
■吉見俊哉は「戦後天皇制とアメリカニズムにおけるジェンダー表象」をテーマにし2004年刊行予定?の『戦後日本とアメリカニズム』の構想の一部から発表した。
戦後天皇制とアメリカニズムを考える上で先立つ研究はジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』である。吉見はジョン・ダワーが統治の次元における天皇制とアメリカ占領体制の「談合」を描写している点を評価しつつ、大衆の日常意識や実践におけるアメリカ的ヘゲモニーの関係の把握は不足していると指摘する。吉見の目的は日常的実践や欲望の次元から、天皇制的権力とアメリカ的価値の関係を捉えなおすことにある。まずはじめに用語について簡単に確認しておく。
■アメリカニズムとは一般にアメリカ社会を統合していく文化過程や原理を指す。吉見は、アメリカが国内であると同時に世界であるという二重性を帯びた構造であることからアメリカニズムを次のように定義する。「アメリカ化やアメリカニズムを、アメリカ社会を統合していく文化過程や原理と理解するのとまったく同時に、アメリカ社会に向けて外部から注がれるまなざしや受容のプロセスとしても考えていかなければならないのだ。……アメリカニズムは、アメリカというネーションに内在する価値体系(対自的アメリカニズム)であるばかりでなく、…略…「他者としてのアメリカ」に向けられるまなざしの関係構造(対他的アメリカニズム)なのである」(『グローバリゼーション・スタディーズ』3巻、平凡社)
■「天皇制」は吉見によると次のように文脈として考えられる。「明治以来、「天皇」と身体をめぐって織り成されてきた言説とイメージ、まなざしの戦略は」、様々な「メディアや文化装置による媒介と受容のプロセス」による。これらは「近代天皇制にとって、付随的な要素どころかまさしく根幹をなす契機」といえ、「その意味で、天皇制はかつて考えられたような抽象的な社会構成体の論理としてよりも、人々の日常的実践のなかに折り込まれた媒介機制として、具体的かつ状況的に作動してきた権力工学」と考えられる。(『天皇と大権を考える』10巻、岩波)
■今回の発表において、吉見は、戦後天皇制とアメリカニズムを、占領期の天皇イメージと1950年代末以降の皇太子妃を軸とした表象の二つの時期で論じた。
■吉見は占領期の天皇イメージにおいて、裕仁+マッカーサーの会見写真と戦後巡幸の受容に関しての一般的解釈への疑問を提起した。裕仁+マッカーサーの会見写真は裕仁とマッカーサーを二項対立的に対比(長身⇔小柄、年長⇔若年、普段着⇔正装、「男性的」⇔「女性的」など)させ、敗戦をシンボル化する解釈が一般的である。しかし新聞による写真の取り扱い方の違いや、写真からどこまで「解釈」が可能であったのかという同時代における受容の多面性や、いつ、どのようにして「解釈」が確定していったのかという、読まれる文脈の歴史性、つまりコンテクストから見た解釈がなされなければならないだろう。昭和天皇の地方巡幸の場合も「人間天皇」への変身を演出するパフォーマンス戦略と一般的に解釈されてきたが、全国紙における巡幸報道と地方紙における巡幸報道の落差(清水幾太郎)やマーク・ゲインによる地方巡幸を迎える群衆についての観察を考えると、ローカル・コミュニティのレベルでの天皇巡幸受容の戦前=戦後の連続性として捉えられるのではないだろうか。つまり「家父長としての天皇」である。
■さらに吉見は偽天皇と遊戯的なまなざしの増殖についても指摘した。まず偽天皇は有名な熊沢天皇をはじめ30数人登場している。また当時10万部発行されたという雑誌『真相』は、「ヒロヒト君を解剖する」ほか数々の天皇にまつわる特集を組み、女性週刊誌は皇室ゴシップ(「称徳天皇淫蕩伝」「桓武母子相恋伝」、昭和天皇「御落チョウ」タンなど)を載せている。これらは天皇が「家父長」であることが変わらぬまま、天皇を堕落させ、貶め、冒涜する。偽天皇と遊戯的なまなざしの増殖は天皇の身体を巡る欲望といえる。
■次に50年代末以降の時期について二つを指摘した。ひとつめはブロマイドのなかの笑顔、つまり皇太子妃ミッチーブームである。「平民」と「恋愛」によって枠づけられた「皇太子成婚」とそれによるミッチーブームは、これもまたあたかも一気にブームが確立したかのように考えられているが、そこではミッチーイメージのパロディー化、商品化、農村部での低い熱狂、若者たちの反感もみられ、ブームの確立にいたるコンテクストをみていく必要があろう。メディア・イベントとしての「皇太子成婚」はテレビの家庭への大衆的普及の契機となった。それ以前と以後ではメディアとして異なる。それ以前は街頭テレビであり、力道山プロレスが人気であったが、「皇太子成婚」以後は家庭のテレビ、家電カテゴリーを登場させた。プロレスがマージナルに、ホームドラマが人気の主流になっていく。
■それが二つめの家電=三種の神器と家庭生活のなかの戦後天皇制である。家電製品の宣伝に女性が登場する現象は戦前1920年代にもあったのだが、その女性とはモダンガールであった。他方の60年代は主婦に取って変わったことが重要といえる。家電製品の宣伝の表象は、家電化=テクノロジーを推進し、家電消費する「主体」としての主婦が強調され、主婦が家庭に囲い込まれていくのである。
■家電がわざわざ三種の神器と呼ばれたことは天皇制と関わりを示すだろう。つまりナショナル・アイデンティティの構築がプライベート化していく過程といえるだろう。
■最後に吉見は戦前の地方巡幸と週刊誌やワイドショーにみられる天皇制をスライドで示した。戦前の地方巡幸を待つ大衆が天皇の目線より下であったのに対し戦後の皇太子成婚パレードや皇室の写真は上から、覗き見られるという表象をとっており見る/見られるの転換が見てとれる。また1960年代以降、ワイドショーや週刊誌は戦後の皇室を良き母としての美智子妃を中心に表象するとともに(おそらく70年代頃からは)裕仁を良き祖父として再登場している。

大橋洋一
■大橋洋一は「ホモソーシャル体制と表象」をテーマに発表した。ホモソーシャル体制の成立とは、同性愛嫌悪(ホモフォビア)と女性嫌悪(ミソジニー)による異性愛体制の創造である。
■同性愛は、本体である異性愛体制の付録=本体の外部であり、不必要なものといえるが、本体は付録によって補足・完成されるという意味では、本体の内部・一部である。つまり本体の内と外か決定不可能で、本体は排除したものを取り込んでいる。さらに付録は本体を代理し、本体に代わり、本体を乗っ取るという危険な代補になる場合もある。
■同じことを絵画の額縁からも考えることができる。額縁は、物理的に外部・不要なものであるが、同時に絵画の一部であり内である。絵画鑑賞の評価に関係し、美術館、制度、市場において役割をもつ。つまり額縁は、内部であり外部という決定不可能をもち、不要で必要、可視でありながら不可視である。二項対立を否定し矛盾を示している。
■別の言い方をすると、付録、額縁、同性愛は抹消記号下、またはニセ消し(open secret)である。不要とされて消されているのだが、同時に完全に消えておらず、必要とされている二重性を持っているのである。
■ホモソーシャル体制の中のホモセクシュアル(同性愛)の表象は、この意味での付録、額縁、抹消記号下のニセ消しとしての役割をしていると大橋は指摘する。
■その例として、ハーバード・ロス監督『グッパイ・ガール』(1977)をあげた。そこでは、ヘテロセクシャルな女性が、ゲイ男性を生活のパートナーにする。ゲイ的要素は、ヘテロセクシャル延命のために利用されて、同性愛は排除される。しかし、ヘテロセクシャル温存のためにはニセ消しされた同性愛が召喚されている。つまりホモフォビアと同時に同性愛は二重に「存在している」。「存在している」ことは重要である。「存在している」ことはホモソーシャル体制を崩す代補可能性をもはらんでいる。
■この恐怖と希望は、ホモソーシャル体制が変換するかもしれない危機的状況を表している。本シンポジウムのタイトルには「資本・表象の共謀と攻防」とあるが、映画などの表象は資本制度を利用することで可能となる。資本制による表象は、この危機的状況を危機的状況のまま延命させているといえる。つまり同性愛により支えられているホモソーシャル体制を表象していることをカミングアウトしようとしているのである。
荻野美穂
■コメンテーターで身体論・歴史学の研究者である荻野美穂は、発表に対して次のように述べた。
■天野には、吉見の発表とあわせて、美術と天皇制について伺いたい。またフェミニストの表象は、美術の見方を知らないものにとってはどう解釈するものかわからないので見方があれば教えてもらいたい。解釈は差異化されており、たとえば今回スライドにはなかったが、オルランという美容整形の過程をみせるフェミニスト表象に対して荻野はアンビバレンツだという。これらのクイア表象の商品化から視覚芸術と資本の関係を考えることできないだろか。
■吉見は戦後とアメリカニズムを扱っており、荻野の昨今のテーマである戦後の家族計画とアメリカ的欲望につながり興味深い。
■吉見と牟田は両者とも天皇制を扱っているが、牟田は明治期から現在に至るまで、吉見は戦前/戦後を分けて扱っている。両者に大正期の天皇制はどうだったのか伺いたい。
■牟田は女性天皇の問題を述べ批判したが、皇太子夫妻にはノイズが見られると思う。当時外務省のキャリアウーマンであった小和田雅子さんの結婚拒否や、結婚後の不妊、子供出産で回避を見たものの生まれたのが女の子であったこと(女性君主論で回避しようとしている)などである。表象の解釈は見る側にあり、転覆の可能性含まれる。女性と天皇という語義矛盾は攪乱やズレを引き起こすと考えられないか。
■大橋には、表の意味がわからなかったので解説をお願いしたい。言語表象という面で名付けのカテゴリーにつきまとう問題(性同一性障害という言葉によって悩んでいる人がアイデンティティ獲得できる一方で、性の揺らぎが再二元化されるなど)について伺いたい。
キース・ヴィンセント
■同じくコメンテーターで、日本近代文学とセクシュアリティ研究のキース・ヴィンセントは、次のように述べた。
■天野には、まなざしは男性主体とは限らないとし、フェミニスト表象の受容の複雑性があるのではないかと指摘した。
まず牟田の女帝批判に賛成である。この女性君主論の浮上は、制度参加するのか、制度をラディカルに批判するのかというゲイの結婚問題を思い起こされたという。やはり制度にラディカルに批判しクイアの方向性を目指したい。
■牟田は男女共同参画天皇制と名付け、ヘテロセクシズムと批判しているにも関わらず、なぜ男女共同参画社会基本法がフェミニストの責務なのか伺いたい。ファインマンの議論は性愛からケアへという転換であり興味深い。
■吉見は、表象の受容に注目して面白いがジェンダーはどうだったのか(主題か方法論か題材なのか)。天皇が見るものから見られるものに変化したのは興味深い。身体を持つ意味の理論性という点で、天野の見られる女性と関連づけられないか。大橋は、ニセ消しについて述べたが、フロイトの検閲(夢、ジョーク、言い間違い)と絡めて表象について伺いたい。
質疑応答
■以上のコメンテーターに対する発表者の回答は、これまでのシンポジウム報告のなかに入れ込む形にして報告したので繰り返さないが、これまでの報告に書いた以外で述べられたことをいくつか以下に記し、報告を終わりにしたい。
■天野は、荻野の「美術の見方を知らないものにとってはどう解釈するものかわからないので見方があれば教えてもらいたい」という質問に、既存の美術のキャノンが「美術の見方」を作り、アクセスを男性に特権化していたことを批判して、フェミニストの表象はビデオや写真など誰もがアクセスしやすい媒体を使っていると述べた。また表象は女性に対する大衆イメージを前提(たとえばグラビアの統制のとれた美女)にしながらその前提への戦略的試み(前者を切り刻まれた身体のコラージュに変える)である。
■牟田は、なぜファインマンが「母子」対というかの会場からの質問紙に対し、ファインマンの「中性化された家族」への批判であると述べた。
■吉見は、荻野が戦前/戦後で天皇制の表象が分かれていると誤解していることに対し、重層的に歴史は変化しており、コンテクストで考えられなければならないことを強調し、あくまでもコンテクストの中で分けていると回答した。また大正期については、1920年代のモダンと戦争体制の重層を指摘した。
■キース・ヴィンセントの質問には、現在、アメリカニズムをポスト・コロニアルで研究する構想をしている中で、ジェンダーをどういれていけばいいのか逆に伺いたいと述べた。
■見る/見られる身体の表象に関しては、メディアの複製可能性が重要である。大量流通・マーケットという資本主義と高度なテクノロジー=メディアの二つによる視覚権力は、読みは読み手に開かれていながら構造化され、メディアによって配置されているからである。
まとめ
■司会の竹村和子は、吉見の質問には、ポストコロニアルを考える上で、ジェンダー配置は抜きにできないと言及した。最後に、国家が国=ナショナル、と家=人間関係である。折しも、家電メーカーはナショナルで「明るいナショナル」をキャッチフレーズに家電化を表象した。そして、国=天皇制と家=家電が政治的に結びつくとまとめ、シンポジウムは終わりとなった。