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J・ボードリヤール来日公演 『グローバリズムと暴力』 報告者 M.Y


テロルの世界で何が起こっているのか――。

■2003年10月9日、早稲田大学大隈小講堂にてJ・ボードリヤール(Jean Baudrillard)氏の講演会が行われました。「湾岸戦争はなかった」「9.11を実行したのは彼らだが、望んだのは私たちのほうだ」と言い放ち、ポストモダニズムにも強い影響を残した独自の社会消費論を展開している彼が、21世紀の社会をどのように見据えているのかを語ってくれました。(ちなみに、集まった聴衆を見て「68年5月のようですね(笑)」とも言ってました。)

@「歴史」と現在

■ 「歴史」というのは、西洋近代最大の仮説です。そして、歴史的な出来事とは、メディアを通して伝わるパニック連鎖です(ex.マトリックス)。それは、再生産の連続であり、どこまでも単調な変換であるのです。ところで、68年の出来事は、メディアの連鎖を断ち切る出来事でもありました。それは「歴史」の内部ではなく、彼方での出来事です。そしてそれは連鎖ではなく、「リアルタイム」という名の、「歴史」の断層のようなものなのです。 68年は、「歴史」を不安定にしました。なぜならば、歴史は近代性の曖昧さによって構築されたものであったからです。(調整不能状態も含む)

■ かつては、「現実原則」が存在していました。しかしやがてそれは消え、現実の装置そのものが脱走しています。現実は、それ自体が目的であり、終わりの彼方として機能しています。現実はすべてを飲み込んでいます。英語の「END」が終わりと目的いう2つに意味をもつことに注目すると、その理由が容易に理解できるでしょう。そして、かつては革命が起源であった「歴史」もまた、それ自体が目的であり終わりのかなたとして機能しているのです。かつては歴史上の出来事は、普遍的なパースペクティブから見られることが可能と思われてきました。しかし、歴史は、もはや普遍などという性格は存在せず、出来事はキリスト教化された「神々」のように、デーモンへと変わり、絶対的な無秩序となります。つまり、日常の出来事のほうに送り返されてしまうのです。

■近代のヨーロッパは「普遍的」でした。しかし、グローバルによって「歴史」の倫理が変換され、「歴史」というものはノスタルジーへと変わりました。我々が歴史のまわりを持続させているようになっています。こうなれば、革命は存在しなくなります。完璧であろうとする機械は、もはや「故障」しか存在しないのです。出来事とはカウンターの攻撃的な性格であり、パワーの向きがパワー自身に向けられているのに対して、事故とはシステムの付随的な機能不全であります。出来事は、技術に悪霊が宿って機械が故障するのを付けねらっていますが、悪霊は出来事には参加しません。この種のシステムは身体、言語、家系、ミクロの物理学的な価値の見えない世界が存在しているのです。ここで我々は出来事でなく、非出来事でもないミステリアスなカテゴリーに到達してしまいます。

■そこで、こういう単語を提案してみます。カタフィジックです。カタフィジックとは、想像上の出来事という意味であります。内必性によって、出来事には、それと同時に起こらなかったあらゆる出来事が作り出されています。出来事の結果は計算できません。その出現は、「宿命的であった」ともいえるでしょう。また、出来事は、実際には起こらなかったと言うこともできるでしょう。例えば、可能な限り、私はひとつの私がアイデンティティ持っている、と言うことができます。逆に、他者としての私もアイデンティティを持っているのです。こうしたパラレルな線が交わらないときは不運な方法となります。複数の私なしでは、個人は同語反復になる。あらゆる文学、とくにロマンはこの他者性のゲームによって成立しているのです。

■19世紀フランスのレヌンバはユートピアの反対概念としてユークロニー(無時間性)という言葉を提案しました。ユートピアは未来の理想に対して、ユークロニーも同じ予想であるのですが、未来でなく過去の予想であります。例えば、「もし、あの時〜だったら」というのは出来事に対する点数付けであり、他にどんな展開が可能だったのかを人は思い浮かべるでしょう。それは、フロイトの錯誤行為とよく似たものかもしれません。しかし、今日では、ユートピアとユークロニーは両方終わりました。なぜならば、抵抗できないアクチュアリティーに飲み込まれたからです。客観的なテクノロジーの次元はイマジネーションを排斥することです。例えば、デジタルの計算にはフィクションを作り出すことは不可能なように、何を可能か問うこと自体が可能ではないのです。そこにあるのは、アクチュアリティーとパフォーマンスの現実のみであります。

A物語としての虚構

■ 物語としてのフィクション、そのようなものは虚構に変換されます。これが過去の不確実性は未来の不確実性でもあることを決定的にしているのです。その不確実性があらゆる歴史の客観性を空虚なものにしています。過去が不安定ならば、過去の記憶は、それが即事実とはいえません。したがって、過去は決定不可能であります。あらゆる解釈の外部に位置していると言えるでしょう。「これから何が起こるのか誰がしっているのでしょうか」と同じように「過去は何が起こったのか」ということは誰が知っているというのでしょうか?未来を予感できるというのは、過去を知っているのと同様、傲慢なものであります。思想はフィクション、物語と同じように消滅します。なぜならば、出来事よりも別のパラレルな思想もあるからです。未来・現在・過去ではなく、現在から過去の時間を想定する必要があります。

■ 9・11は予想不可能でした。しかし、それを起こす思想はそこにありました。出来事→思想ではなく、思想→出来事になるのです。例えば、呪術的な思想は思想自体が出来事になります。思想は出来事に先回りした衝撃波となるのです。思想とは待希(たいき=待ち望むこと)と注意力のことであります。精神分析においての、転移と逆転移とも言い換えられます。我々は未決定の宙吊り状態であり、出来事を待ち望むしかないのです。 9.11以前において、うつ状態を溜め込んでいた、我々にとって 9.11は無秩序な禁止として、あらゆるものよりも優れた暴力的な脱構築ともいえます バーチャルな分析を局限化すると、グローバリゼーションと日本の天皇制などが浮かび上がります。それは、世界そのものと不可能な交換であり、世界を決定的な幻想とするものであります。

■そこでは、可能な限りの多様な形態でのシミュラークルが行われます。シミュラークルとは真実を隠すものではなく、真実の不在を隠すものであるのです。だからこそ、シミュラークルは真実となっています。シミュラークルとは策略です。真実が存在しないことを知ることによって、人々は初めてAIなどの人口知能を使いこなすことができます。真実がないと知った時から、真実に近い記号を等換化することができるのです。そして、真実の真空状態をあける必要性がなくなります。今後は、セキュリティーと不確実性が問題となるでしょう。不確実性が何を我々から予防してくれるのでしょうか?ここで、我々は現実的と理性的のカテゴリーを区別する必要があります。情報化時代の到来によって歴史が終わり、政治的用語でメディアを解釈することはできなくなりました。

■バーチャルなものの現実を否定することによって、バーチャルでないものも否定することになります。例えば、人口知能などの究極の段階は存在しないことになります。バーチャルなものを我々は予想していたかもしれません。しかし、情報の人質となりつつも、情報の共犯者を我々は担っているのです。情報に潜むアイロニーによって、我々は情報との間の距離を置くことができます。したがって、情報の完全透明性を我々は、本当は望んでいないのです。以前には、歴史や知、権力や真理といった主体が存在しました。しかし、今日ではそんなものは見つかりません。結局、主体の問題とは、疎外の主体とその不幸な運命であるのです。フィジックやメタフィジックはファタフィジックへと向かっています。このアイロニーによって世界はパワディーな段階へと到達しました。

■アイロニー的な段階の仮説が存在すれば、それはハイデガー問題を解決してくれることとなります。歴史の終わりのラディカルなスノビズムから離れてはいないのです。人口的な現実とラディカルアイロニーのなかにあります。それは真実を把握したいとする我々の考えから我々を守ってくれるのです。

B芥川賞作家、逸見庸氏による質問

■「9.11を超えるようなもっと大きな出来事があるのか? あるとすれば、次にどのようなものが起こると想像しているのか?」 ――9.11以降も、9.11よりも少しづつ高次な出来事が起こりうる可能性があります。パワーの上昇が起こっており、ハイデガーが人間の2番目の堕落といった状態が起こりうる可能性があります。しかし、何が起こるかは予測不可能です。例えば、ゲームにおいては、どんなゲームプレーヤーもゲームより大きくなることはできません。テロリスト自身もゲームの規則より大きくなることはできないのです。行為者による事故なのか、自然災害ではなのかということもできます。テロではなく社会の政治の内破も9.11と匹敵する出来事であるということができるかもしれません。

■出来事に先行するすべては凡庸に見えるし、出来事に続くすべてはもっと凡庸に見えます。過去、私は9.11をボルヘスの『鏡の中の動物』という小説になぞらえたことがあります。その小説の内容はこうです。昔、ある帝国が存在しました。帝国は繁栄し、人口が増えてきました。帝国にあふれた人々は罰として帝国の内側の人々の真似をする刑を科せられました。鏡の中に追い込まれた住人は征服者通りの行動をしました。しかし、そのうち征服者の真似をしなくなり、鏡を打ち破ってしまったのです。しかし、もはや現実には世界に鏡は存在しません。これはボルヘスの言葉でありますが、彼は「鏡に写った人の裏側(後ろ側)に、我々は鏡に敗れた人々や、負けた人々を想像しており、鏡の後ろにはどこかに人々が潜んでいる」という発言をしています。

■ブラウン管などのTVスクリーンは消滅しかありません。一方、鏡はすべて消滅した訳ではないのであります。鏡の彼方はあってもスクリーンの彼方は存在しません。スクリーンは表面であって奥行きは現れないのです。しかし、復習や反撃は起こります。これから、どんな新しいゲームがあるかは、なかなかここでは言うことができません。テロリストを鏡の反撃と見るか、悪の枢軸と見るかによって考え方が変わってくるからです。

C雑誌『世界』編集委員、山本氏による質問

■「社会システムの機能不全を主張するボードリヤールさんは、日本のオウムの地下鉄サリン事件のよる警察権力の拡大をどう思っているのでしょうか?」 ――私は現実政治に関して相談を受ける存在ではありません。そんな立場にはないのですが、あえてコメントすると、グローバリゼ−ションの進行の1つにアメリカの存在があります。しかし、アメリカを1つの主体としてはいません。アメリカはイスラムの対極とは必ずしもいえないのです。サリンと9.11についても同じようなことがいえます。すべての出来事はシステムの強化に向かっていきます。 9.11やサリンなどの、どんなテロでもシステムのコントロールに対しての攻撃で、システム自体が反撃してコントロールを強化することになります。ファシズムと反ファシズムというベンヤミンの言葉を発展させて、テロリズムと反テロリズムということもできるでしょう。ある意味テロは成功したといえます。

■テロによってシステム自体がテロ化したともいえるでしょう。しかし、9.11とサリンの決定的な違いがあります。 9.11は、自らの死をかけたテロであり、ある種の決闘でした。自分の命を失うことによって、システムに対して戦いを挑む、ある意味人格的なテロということができるでしょう。しかし、サリンは非人格的なテロであります。なぜならば、警察によって捕まってしまったので、9.11のような決闘性を持たないからです。命を懸けてシステムに挑んだとは必ずしもいえないでしょう。 9.11以降アメリカは現世界システムイデオロギーに対抗して、イデオロギーを等一化するという行動に出ています。これは、システムの保安イデオロギーに対する攻撃です。

■日本の文芸評論家の絓秀美(すがひでみ)さんがこのことを「死者をゼロにしようとするシステムに対抗して、命を懸けてシステムに挑もうとしているのである」というような感激的なことを言っています。私はまったくその通りであると思います。出来事としての思想の例を挙げると、それは未来、過去などの因果とは別の形での出来事であります。それは、共犯関係として浮かび上がってきます。世界を変える革命的な思想と出来事としての思想は違います。大きな、崇高な思想はもはやありません。特異性や細部にこそ出来事としての思想は宿っているのです。このことを考えるには、我々が世界を考えているのではく、世界が我々のことを考えているという発想の転換が大事です。

■かつて、栄養の哲学者たちは世界のことを考え世界を批判してきました。そこには世界が我々のことを考えているという逆転性がありませんでした。しかし、東洋思想には世界が我々のことを考えているという思想があります。西洋哲学に東洋哲学を組み込むことは甚だキッチュであります。我々、西洋人がグローバルになった東洋的なシステムを考えることが新しい展望になるのではないでしょうか。

D1980年代生まれの学生へのメッセージ

■私はもう年老いています。メッセージなどありませんし、私はメッセンジャーではありません。また、霊媒師などでもありません。もし、あなたが決定や行動に対するメッセージが必要なら、それはあなた自身の問題です。このような質問は、質問自体に答えがあります。例えば、私はここにいる。私は答えだ。というようなものです。私が、1つ言えるのは未来へのメッセージなど信用してはいけないと言うことです。もし、信用すると、あなたは自分に対して反対していることとなります。そんなの信じるな。これが私のメッセージです。(会場爆笑、拍手)

 

 

※論旨は以上で、細かい説明においては他にも面白い話もありましたが、割愛しました。主観によるまとめなので、本人の発言の意図と随分違うところがあるかもしれませんので、ご了承ください。

 





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