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【第六回「文学・大西巨人『神聖喜劇』を読む」印象記】報告者 ―F―

 

■20031025日土曜日にHOWS後記第一回目の講座が開かれた。ゲスト講師は立野正裕氏。立野氏の講義で私がポイントだと思ったところをレポートしていきたい。

■一つは『神聖喜劇』の「第三部 運命の章/第二 十一月夜のアイビキ(あいびき)」で東堂太郎が話題にしたり想起したルーパート・ブルック、ジョン・マックレー、ウィルフレッド・オウェンらの第一次大戦で夭折した詩人の言葉に注目した所だ。そこで引用されているマックレーの“In Flanders Fields”[『フランドルの野に』]は、本文にもあるように「愛国的、もしくは准愛国的な、戦争肯定的な、ともすれば好戦的な」詩であり、対して同じく引用されているオウェンの“Anthem for Doomed Youth”[『死なねばならぬ若者たちのための聖歌』]は明確な反戦詩である。

■立野氏はこのような相反する詩の両方を東堂はなかば共感的に想起し考えていくことで、それらの詩を内在的に乗り越えて行くと言う。そしてその乗り越えられた地平こそが「第八部 永劫の章/第三 模擬死刑の午後(結)」での冬木照美の行動と、それに震撼させられる東堂の「改心」によって示されると。この冬木の行動への考察が二つ目のポイントになると思う。

■冬木は「人間の魂に対する侮辱・凌辱」である下士官への「模擬死刑」に対して「人の命を玩具にするのは、止めて下さい。人のいのちは、何よりも大切であります」と言う。その抗議に田中軍曹はかつて冬木が事故的に人を死にいたらしめたことをなじり、最後には「いったいお前は、戦地で、どっち向けて、鉄砲を撃つつもりか。どっち向けて撃っても、―前向けて撃っても、うしろ向けて撃っても、―どっちみち玉が当たって人が死ぬじゃろうぜ」と問いかける。その問いかけに冬木は、鉄砲は「上向けて、天向けて、そりゃ、撃たれます」と答える。 この一つのクライマックスで立野氏は、ここで冬木が全存在をかけて出した答えは、大岡昇平が感動したような自己犠牲、殉教の精神ではなく、すべての「いのち」、つまり自分の「いのち」も殺さない、そして他人も殺さない、という発想だと指摘する。もちろん冬木の態度は戦場では、命令違反かつ「敵」への無抵抗であるから多くの場合死ぬかもしれない。しかしそれでもなお「自分は死なない、そして他人を殺さない」という倫理が大切だと立野氏は強調する。なぜか。

■その講座で参考資料としてアメリカでレッド・パージ(赤狩り)にあった映画監督ジョゼフ・ロージーの『銃殺』が最後の三分の一ほど上映された。若い兵士が身心喪失で「敵前逃亡」し不公正な「軍法」の運営によって「銃殺」されるというストーリーである。立野氏はこの映画を元に、法の下で法に従いながら闘いつつも、その法の運営自体に不公正があったときにはどうすればいいのか?という問題を提起する。「Shot at dawn(未明の銃殺)」という墓碑名をあえてつけた兵士の父親や、作家ロレンスの「兵士たちはみな勇敢だ。苦難に彼らは耐えている。だが、それらの苦難を拒否するほど勇敢な人間は一人もいない」という言葉を紹介しながら、立野氏は冬木の行動にこそ、その難問に対する回答があると結論し、講義は終わった。 討議では作者である大西氏の斉藤史や保田輿十郎などの日本浪漫派的な人々へのシンパシーが問われ、最後の会で直接聞こうという結論になるなど盛り上がりを見せた。個人的な感想としては、詩人の言葉を反芻することで内在的にそれを越えていくという話から、事前に配られた立野氏の論文「兵士の論理を超えて―『レイテ戦記』と『神聖喜劇』」の中で紹介されている、大西氏の「物事をつきつめて考える。それを怠らない限り、戦争の記憶が風化することはありません。」という言葉を想起した。

■第一次大戦の体験を良くも悪くも言葉に刻みこんだ詩人を、第二次大戦の渦中にある東堂が想起し考えることで越えていく。それが「戦後五十年」において戦争の記憶が風化するのではという問いに対する答えだったとしても、そこに先の大西氏の発言のありうべき一つの実践例が見い出せるのではないか。 また『銃殺』において最後に兵士を銃殺する所で、銃殺する者の視点から撮られたショットで真ん中に伸びた銃が、処刑者からずれたところに狙いをつけるシーンを見て、ここには(おそらく処刑される兵士の仲間である)一兵士の消極的抵抗があると思った。そのような抵抗も立野氏が冬木に見出す「自分は死なない、そして他人を殺さない」という闘争のための重要な方法の一つではないか、と。しかし『神聖喜劇』の東堂、また他の者たちでもそのような卑小、卑怯であるような抵抗が肯定的に書かれることはほとんどなかったように思う。それをどう考えるかなどという感想を抱いた(しかし『銃殺』では、その「消極的抵抗」のせいで?若い兵士は一度で死ねずに、無用に苦しむことになるのかもしれないが・・・)。 最後に私は今年から大学院の修士一年だが、今年受けた授業の中でもこの講座は最も刺激的なものの一つだった。これからもぜひ参加したい。(F)

 

 



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