HOME 
[PR]テレビ番組表
今夜の番組チェック

北田暁大 『アメリカ的プラグマティズム:リベラリズムと<帝国>』 報告者 chiki


「反理念的・理念」としてのアメリカとアイロニーを巡って――ネグリ=ハートから、ローティ、宮台へ

■2004年5月7日、岩波セミナールームにて北田暁大氏による講演会が行われました。その模様を簡単にレポートします。録音した上での文字起こしなどではなく、当日配布されたレジュメと報告者によるメモを元にしたレポートとなっておりますので、あくまで一参加者の印象記としてご参照してください。

 

今なお不可解な「イラク戦争」を遂行している<帝国>アメリカ。その振る舞いは、たんにブッシュ政権=ネオコンの「反動性」によるものではない。民主/共和、左/右の区別を超えて、アメリカの知的伝統のなかにはつねに、<帝国>的なあり方を正当化する論理、プラグマティズムが存在していた。アメリカへのポストモダニズムの紹介者として知られ、独自のプラグマティズムを展開・彫塑している哲学者リチャード・ローティの議論に照準しつつ、<アメリカ的なるもの>と<帝国>の論理との内的な関係性を分節化することを試みる。プラグマティズムはいかにして21世紀的<帝国>とむすびつくのか? アメリカ思想の根底をなすプラグマティズムから、ネオコンにいたる言説の系譜をたどる。(当日配布されたパンフレットより)


■どうも、北田と申します。一時間ばかりお話させていただきます。今日のテーマは「アメリカ的プラグマティズム:リベラリズムと<帝国>」というものです。本日は、元々はアメリカ的プラグマティズムの系譜をデューイあたりから遡って考えようと思ったのですが、ちょっと変更しまして、今日は、ローティの話に少し深入りしたいと思います。

■現在もイラク戦争と呼ばれるものは進行中です。私たちはアメリカをどう捉えていくのかというのを思想史的な場面から考えていきたいと思います。私もたまに口にしてしまうのですが、「どうしてアメリカはあのような朴訥とした正義を振りかざすのだろう、もしかしたらアホちゃうか」というような考え方を私たちはついついしがちです。今日は、「アメリカ」の中にある、そのような捩れに着目していきたいと思います。今日は、アメリカのそのような捩れを一人の身体の中で見事に体現しているような思想家として、リチャード・ローティを取り上げたいと思います。

1.<帝国>とアメリカ

■まず、ローティの話をする前に、理念としての「アメリカ」と生活的基盤としての「アメリカ」の関係を考える上で媒介項として、ネグリ=ハートの『帝国』を取り上げてみたいと思います。この本は実に絶妙なタイミングで出た、恐ろしく分厚い本です(笑)。『帝国』には、おおまかに次のようなことが書いてあります。「帝国とは対照的に、<帝国>は権力の領土上の中心を打ち立てることもなければ、固定した境界や障壁にも依拠しない。<帝国>とは、脱中心的で脱領土的な支配装置なのであり、これは、そのたえず拡大し続ける開かれた境界の内部に、グローバルな領域全体を漸進的に組み込んでいくのである(邦訳5頁)」経済、政治、コミュニケーションのグローバル化に伴い、かつての覇権的な意味での帝国主義は存在しない。そして、アメリカもまた、その中心になることはできず、むしろ世界全体が網の目上につながっていくような<帝国>が表れてくるだろう、というある種、予言的な本であったわけです。そして、この本がでたタイミングというものが、まさしくアメリカが現在にいたるまでの、ある種の帝国主義的な振る舞いのように見える行動を開始するタイミングでもあったのです。

■まず、アメリカは<帝国>かどうかという議論がありました。これに対してアメリカは<帝国>だという立場(YES)、そうではないという立場(NO)の2つが成り立ちます。前者は絓秀実(すがひでみ)さんが「論座」の書評にて書いていた意見です。後者は、ネグリ=ハート自身の意見です。もちろん、ネグリ=ハートのこの概念も、現実的には無理がある解釈でして、ちょっと暢気じゃないかと言われてもしかたがない部分があります。長原豊さんとのロングインタビューで、ハートが「グローバルなエリート達が合理性に基づき判断すれば、<帝国>につながっていくだろう」といったよう意味のことを言っていましたが、どうもハーバーマス的なオプティミズムが見えてしまいます。

■この2つの回答の仕方があったときに、この両者にはどこか共通した前提があります。つまり、ここでの「アメリカ」を、アメリカ政府、または地政学的なアメリカと同一視して議論をしているということです。ですが、むしろ実体化されたアメリカというより、むしろ理念としての、イデオロギーとしてのアメリカを問題化するべきではないでしょうか。そこで「アメリカ」という思想を考えたとき、「反理念的・理念」としてのアメリカ、つまり、理念というものを否定するという理念をもった存在としての「アメリカ」に着目すれば、<帝国>とは別の視点から考えられるのではないかと思います。

■R・ケーガンの『ネオコンの論理』という本の中で、今私が「反理念的・理念」と呼んだものに関する見事な議論が行われていたように思いますので、抜書きしました。ケーガンはシュトラウス学派の末裔のような方で、ネオコンの持つ論理について非常に明快に語っております。3点挙げておきます。@「アメリカはヨーロッパがカントのいう永遠平和の天国に入るにあたって決定的な役割を果たしてきたし、この天国を成り立たせるうえで、現在でも決定的な役割を果たしているが、アメリカ自体はこの天国に入ることができない」…これは「ポストモダン的永遠平和の天国」を吊り下げる虚焦点としてのアメリカ、記号学的な言い方で言えば、ゼロ記号としてのアメリカとして捉えられます。このように言えば、そのゼロ記号を特権化して語ってしまってもおかしくないのですが、しかし2番目に挙げるように、それはアメリカローカルなものであると率直に認めています。しなくてはなりません。A「アメリカ人は常に国際主義者であったが、その国際主義はつねにナショナリズムに付随したものであった。アメリカが国外での行動について正当性を主張するとき、その根拠に国際機関を求めることはなく、自国の理念に求めてきた。だからこそ過去のどの時代にも、現在でも、アメリカ人の大多数は、自国の利益を追求すれば人類全体の利益を追求できるとの見方を容易に受け入れられるのだ。ベンジャミン・フランクリンが論じたように、<アメリカの大儀は全人類の大義である>」…これは、アメリカのエゴイズムと言うよりは、全体を吊り下げているアメリカが地域性の負荷を受けていることを論じている部分です。つまり、虚焦点としてのアメリカのローカリティを認める部分です。さらにもうひとつ、この2つの議論と少し位相が異なるものとして、超理想主義としての「現実主義」というものがあります。B「アメリカ人は理想主義的である。ある面では、ヨーロッパ人以上に理性主義的だ。だが、力がないまま、理想をうまく広めた経験はもたない」これら三者の関係を考えていきたいと思います。

■このケーガン「ネオコン」の論理を、単なる俗流ホッブス主義、または単なる右派の戯言と処理してはなりません。先の3点をすこしまとめると、全世界(あるいはヨーロッパ的世界)を吊り下げる虚焦点としての<アメリカ>が(@)、同時に、きわめて限定された歴史・文化の内部で構成されたものにすぎない(A)という捩れ、およびそうした捩れを担保するものが、ヨーロッパ的理想(理念)主義を越える理念主義、つまり”反理念と言う理念”を掲げる超理念主義であること(B)を指し示している、ということになります。つまり、実体としてのアメリカではなく、理念としての<アメリカ>の屈折というものを、普遍性/局所性の捩れ、そして「反理念‐理念」という否定の論理、消極的な論理という2点に着目すれば見えてくるのではないか、というわけです。

■この屈曲は、グローバル化の進行によって解消されるようなものではなく、つねにアメリカの文化社会のなかに回帰してくるものなのではないでしょうか。 「アメリカ=<帝国>」論も、「アメリカ≠<帝国>」論も、この<アメリカ>の屈曲を捉えられておらず、むしろこの理念としての<アメリカ>に焦点を当てていくべきではないでしょうか。

2.ローティの<アメリカ>

■この問題を考えていくときに私が念頭に置いた論者がリチャード・ローティです。ローティの思想を追うと、普遍性と局所性の捩れや「反理念的-理念」というものがかなり如実に表れているように思います。もちろん、ローティにアメリカを代表させてはいけませんが、そこに象徴的なものを見出すことは出来ると思います。

■ネグリとハートの『帝国』のなかでも、<帝国>には外部がない、ということを言っていました。全世界をグローバル化していき、経済的、政治的、警察的等の関係も内化されていき、対外的な軍事行動も<帝国>内部の警察行動としてうけとられるのです。その外部のなさを問うていくと、<アメリカ>をも飲み込む唯物論的外部(グローバリゼーション、情報ネットワーク)が消失していきます。こういう状況の中ではアメリカも変わらざると得ないだろう、という議論でした。<帝国>を下部構造、<アメリカ>を上部構造として捉えるという唯物論的な議論としても見れます。

■ただ、先ほど指摘した理念としての<アメリカ>は、<帝国>的現実の従属変数に過ぎないのか、また、<アメリカ>的外部のなさが、<帝国>の外部のなさに抗う可能性はないのだろうか、という疑問が浮かびます。そこでもう一度、先ほどの2つ(「普遍性/局所性の捩れ」「反理念的‐理念という否定の論理」)を再考する必要があります。そこで、ローティのプラグマティズムについて考える必要が出てきます。

■まず、ローティの政治理論の根幹を3つに分けてみます。@反基礎づけ主義、Aアイロニズム、Bエスノセントリズムの3つです。

■@の反基礎付け主義というのは、演繹的、論証的な基礎付けを行って主張の展開を行う基礎付け主義に反対するものです。彼はその立場に基づき、文化的左翼(cultural left)と呼ばれる人たちを批判します。その論理は次のようなものです。「文化左翼は反基礎付け主義的なポストモダン理論に依拠しているはずなのに、政治に対する哲学の優位を前提にしており、結果的に基礎付け主義的な知識理論を延命させてしまっている、というのです。→政治は公的な領域に属する事柄であり、哲学は文学や音楽などを同じく私的な領域に属する事柄である。→公的領域と私的領域は独立した言語ゲームをもって営まれている(営まれるべきである)。文化左翼は、本来私的な領域において享受されるべきデリダやフーコー、ラカンらの思想を元手に、政治的にかんする理論的・実践的指針を導き出している。→ゆえに、文化左翼はダメだ」と。これは、それなりに反発を生む議論です。特に「公的領域/私的領域」という区分には疑問が浮かぶところですが、その部分に関してローティは考えているようで、それがアイロニズムの問題に関わってきます。

■Aのアイロニズムとは、アイロニスト――「自らの立ち位置の偶然性を承認する者」――の公理です。その公理のようなものとして、ふたつのコンティンジェンシーへの処し方を指摘できます。まず一つ目。言語は、その意味によってではなく、因果的効力によって自他の信念体系(やアイデンティティ)に影響を与える、という、「意味」や「アイデンティティ」のコンティンジェンシー、物質性を差し出した議論です。これは、私的領域に関連してきます。80年代以前からのローティからもいえることなのですが、ローティはデイヴィッドソンや、デリダの、隠喩的意味を批判し、効果のみがあるのだ、という言語観への共感しています。そして二つ目。道徳(倫理)もまた、「意味」によって担保されるものではなく、「他者に現れている悪(恥辱、苦痛)を少しでも減らしたい」という欲求(共感能力)に駆動されたきわめてコンティンジェントな事象であり、カント的な、歴史的偶然によって形成された共感能力以上の「道徳の基礎」を求めることは出来ない、というものです(「恐怖のリベラリズム」)。これは、公的領域に関わってきます。

■「(言語によって)自他の信念体系を改編していく」という課題(私的領域における哲学の課題)と、「他者の悪を軽減する」という課題とは、一応別個のものです。「公的」な政治とは、これだけは許しちゃおけないという「悪」の軽減を理屈抜きに指向する言語ゲームの総体であり、「私的」 な活動とは、そうした身も蓋もないリアルには還元できない信念体系の豊饒化を図る言語ゲームの実践空間です。この、両者を混同する(文化左翼のように「哲学」が「政治」の指針を与えると考える)ことは、目前にいる他者の痛みを「意味論化」する基礎付け主義にコミットすることにつながる。以上がローティの考えです。つまり、目の前に飢えたホームレスがいるのならば、まずはその苦しみを取り除くのが政治の課題だと。私的な領域から「ホームレスに接している私のアイデンティティとは、実は偽善なのか」云々は家でやってくれ、と。

■Bの、エスノセントリズムについて説明します。コンティンジェンシーを真摯に受け止めるなら、自らが拘束されている信念体系の外部に立てる、と考えることは出来ない。どこまでも特定の信念体系――それは往々にして自らが属する文化によって涵養される――のなかで私たちは思考するしかない。これがローティのエスノセントリズムですが、自国を賛美するのではなく、むしろ認識論的に、外部に出られないことを言っているのです(こうした主張は文化相対主義を批判する文脈で提示されたものであることに注意 cf.デイヴィッドソン「経験主義第三のドグマ」)。

■この3つを基盤に、ローティの<アメリカ>論を考えて見ましょう。”Achieving Our Country”『アメリカ 未完のプロジェクト』という1998年に出た本があります。ポストモダン・ブルジョワリベラリズムという形で、すでに@〜Bの話は出揃っていたのですが、95年くらいから<アメリカ>について言及しだしています。詳しくは、マーサ・C. ヌスバウム『国を愛すると言うこと』という本を参照してくれれば分かります。NEH (National Endowment for the Humanities)会長ジェルダン・ハックルニーの「A National Conversation on America Pluralism and Identity」プロジェクト(1993)、つまり、アメリカ人のアイデンティティを形成するプロジェクトに端を発するCulture Warsの局地戦的な論争が行われます。多元主義的愛国(伝統)主義(ハックニー)とナショナリズム批判(セネット)の議論です。その文脈で、ローティがセネットを批判し、ハックニー擁護の陣営に立った「差異の政治学」的スタンスを批判します。つまり、自分達の国への誇りなくしては、改善は出来ないということです。この頃から彼は、本格的な「アメリカ擁護」論の開始します。その本の最初は、「国家の誇りと国家の関係は、自尊心と個人と同じ関係にある。つまりそれは、自己改善に必要な条件なのである。国家が誇りを持ちすぎると、好戦的性格と帝国主義が生じてくる。それは個人が自尊心を持ちすぎると傲慢になるのと同じである。しかし、自尊心が少なすぎると、個人は初心を貫く勇気を発揮することはできなくなる。それと同じように、国家に対して誇りを持たなくなると、国家の政策について活発で効果的な討議が行われることはなくなる」というものです。これは、ローティが突然愛国主義に目覚めたということではなく、以前から似たような主張はしていました。それを今回は、@〜Bという形でまとめてみました。

■彼の場合は脱構築といったものを理論的に使うより、アメリカ産のプラグマティズムを基礎にしています。つまり、@反基礎付け主義/プラグマティズム的伝統 ヨーロッパ的「理念主義」と異なり、基礎付けを求めることなく、漸進的な改良主義をもって、立憲民主主義/自由主義的政治体制を発展させてきたのがアメリカの原型だということです。これは、ローティのみならず、反ラディカリズムに関連した流れです。

■Aアイロニズムに関して。自らの選択を基礎付けようとするヨーロッパの知的風土と異なり、アメリカは自らの選択が偶然的であることを率直に認める。哲学的に基礎付けられないとしても、その選択が結果的に「比較的うまくいっている」ならば、次の機会にも採択する。特定の政治的選択は理念によって決定されるのではなく、その選択が「悪の回避」に寄与しうるかどうかというプラグマティックな判断によって決定される、ということです。プラグマティストに対する彼の説明で、こんなものがあります。「神が存在しないから神官に寄付しないのではなく、今まで神官に寄付をしてきたけれど、あまり効果がなかったから多分神は存在しないのだ」ということです。存在論的主張ではなく、反基礎付け的な主張の分かりやすい例です。

■Bエスノセントリズムに関して。もちろん立憲民主主義/自由主義的な政治体制への選好は、理論的に根拠付けられるものではなく、アメリカがたどってきた歴史的経験のなかで体得されたものにすぎない。しかし立憲民主主義/自由主義的な政治体制で、そうではない政治体制に比べて「比較的うまくやってきた」とローティは主張します。

■これら、ローティの意見を強引にまとめると次のようなものになります。「現状では色々と問題はあるけれど、とりあえずアメリカ的名リベラル・デモクラシーは、他の政治体制と比べた結果、「悪の減少」という善 good を実現してきたのは事実である(反基礎付け主義)。この事実と照らし合わせるなら、なるほどアメリカ型デモクラシーに「根拠」はないが、「最善なき次善」の策とはいえるだろう(プラグマティズム)。こうした感覚を持つのは、自分がアメリカという場所に生まれ育ったからかもしれないが(アイロニズム)、それはそれで仕方がない。誰しも自らの位置を規定する地平の外部に出ることは出来ないのだから(エスノセントリズム)…」こうしたローティの立ち位置は、右派からは伝統批判だと非難され、左からは右翼じゃないかと疑われています。本人はどっちでもないことが自分のポジションだと強調しているんですが、ある意味典型的な<アメリカ>的スタイルですね。「基礎がない」ということを基礎にするところから議論を徹底しているからです。これは、最初のR・ケーガンの話、「反理念的‐理念」にもつながってきます。ローティの位置は、民主党左派的なところですからケーガンと一緒にすると怒ると思いますが(笑)。

3.<アメリカ>の外部/<帝国>の外部

■ここで、最初の<帝国>と<アメリカ>に関する議論に戻ります。<帝国>の「外部のなさ」が、外部世界を鳥瞰する(唯物論的)視点から語られうるのに対して、<アメリカ>の「外部のなさ」はそうではありません。ハートは「<帝国>的」と「帝国主義的」の差異化する視点の導入しています。そして、<帝国>に関しては割とポジティブなスタンスを取れる、と。対してローティは認識論的エスノセントリズムゆえに、<帝国>的援助/帝国主義的戦略とを区別することは不可能で、第三項の想定を否定します。

■<アメリカ>の「外部のなさ」は、<帝国>の「外部のなさ」よりもはるかに包括的でよりやっかいな粘着性を持っています。<アメリカ>=否定的な定義の羅列によっておぼろげにその外延を浮び上がらせるような、消極の共同体。それは、「民族精神」や「歴史」「文化」といった指標によって共同性を担保することが出来ない。ゆえにリベラリズム、デモクラシーといった「底の浅い」正義への信仰が生まれてくる(藤原帰一『デモクラシーの帝国』)、と。こうした浅薄な正義は、それが浅薄であるがゆえに、過剰なまでの「普遍主義への依存と政治のイデオロギー化を招」き、「その普遍主義のために、「国内」と「国外」の壁を自覚しない、という現象」が将来された、とも考えられる、と(括弧内、藤原)。

■否定の共同体=<アメリカ>は、その倫理的価値を疑いえない最小限の正義だけを賭金として、あらゆる外部をその内に包含することができます。ネグリとハートは、<帝国>=肯定的に定義することができ、現実(帝国主義)と理念(<帝国>)との落差を測定する基準として機能することが出来る、と考えています。現在、否定の共同体<アメリカ>においては(超理念主義)、現実/理念、局所/全体(世界)、アメリカ/「現実の」国際社会、といった落差は、文法的に問題化されえません(普遍性と局所性の捩れ)。逆に言えば、現実/理念、局所/全体(世界)、アメリカ/「現実の」国際社会といった区分が失効する地点に<アメリカ>はあるのです。(cf.アメリカ外交の「理念主義と現実主義の一体化」)

■ちょっと言い方は悪いですが、このような<アメリカ>を、「普遍的な田舎者」と表現してみましょう。局所に留まりつつ、その局所において全体を一挙に再現=表象代理する(外部を消去する)存在ということです。帝国主義的でありながら、孤立主義的であるという理念性。いわば、モナドロジー的な<アメリカ>の否定弁証法、局所でありながら全体であるという要素を見出すことが出来るのではないかと思います。このように、ローティを代表させて<アメリカ>を考えてみますと、<帝国>と<アメリカ>が、どこまでもすれ違い続けていくということを捉え返すことが出来るのではないでしょうか。

質疑応答

質問者1 理念としての<アメリカ>を体現しているような人を説得する方法、対抗戦略等はありますか?

■彼等に決して悪意はなく、むしろ誠実だったりします。ブッシュもネオコンも、イラク戦争に関しては三段論法的に考えていたとは思います。独特の希薄の規範に対して誠実である<アメリカ>に対抗する論理は、私自身なかなか浮かびません。その前に、<アメリカ>を性格に把握する作業をしなくては、「アメリカってバカだよね」という言葉で終わってしまうので。

質問者2 ローティ的なアイロニズムに対して、どのような態度をとるべきでしょうか。

■私自身、ローティに対してはアンビバレントな感情を抱いています。日本では上位10人に入るローティ好きなんです(笑)。共感しつつ、反発も覚えます。ただ、アイロニズムが持つ政治的効果と論理を見極めていかなくてはならないでしょう。そのために、やや反面教師的にローティと付き合っていくつもりです。私自身の中に、対抗的な論理はありませんが、示唆には富んでいます。何故このようなことを考えた人が「愛国」を唱えるようになったのか。日本では加藤典洋さんの論理も似ているのではないかと思いますが、加藤さんの論理を理解できなくてもプロセスを考える必要はあると思います。

質問者3 目の前のホームレスの話で、ホームレスが飢えているのは「自己責任だ」という言い方が一方であると思うのですが、ローティならどう対処するのでしょう?

■私はローティでないので分かりませんが、おそらく「自己責任という曖昧な概念では議論するのは無意味だ」的なことを言うのではないでしょうか。ただ、ローティ自身は、自分の「言説の効果」について考えている人です。それがおそらく、彼がアイロニストだといわれるところだと思います。

質問者4(鈴木謙介) 先ほど、「言説の効果」という話が出たのですが、日本でそのような態度を取り、北田さんよりもローティ好きであると思われる宮台真司さんという方がいらっしゃいます。彼は「あえて今は○○だ」という言い方をします。『新現実vol.3』において、大塚英志さんは「そんな言い方をしても、副作用としてこういう効果があるじゃないか」と批判していました。僕が伺いたいのは、そのような批判だけでなく、彼が何故そのようなことを言うのか、という問題に気を使わなくてはならないのではないか、ということです。それから、実際問題として、宮台さんが三島について論じると三島全集が出たりするのですが(笑)、その現状に則して考えてそこをまず批判しなくてはならないのと別の文脈で、彼の意図分かるとどういう良いことがあるのかをお聞かせ願いたい。

司会 その辺りは是非ここでぶっちゃけてください(笑)。

■宮台さんに直接聞いてください(笑)。僕も疑問なんです。宮台さんはローティに似ていると自分で言いますが、ローティから宮台さんが引き継いでいないのが、公的/私的というものですね。『新現実』の対談では――この話はもしかしたら非常にローカルな話題なのかもしれませんが(笑)――大塚さんと宮台さんは実は似ていらっしゃいます。嘘だと分かっていながら亜細亜主義、三島論。嘘だと分かっていながら戦後民主主義を擁護すると(笑)。そこで大塚さんは、戦略は分かるが何故そちらに行かれるんですか、と。ロマン的なものは趣味や文学に委ねればよく、戦後民主主義でいこうよ、と。このように見ると実は大塚さんの方がローティ的です。ロマン的なものは私的な領域に閉じ込めよう、と。宮台さんはその境界付けをしません。それから、アイロニストの立ち位置が分かるといいことがあるのか、という問題ですが、ローティは相手にとって味方だと思わせて実は敵だった、とずらしながらパフォーマティブに振舞います。ただ、宮台さんは全部ばらしながらやるので(笑)、それが本当にアイロニーなのかは分かりません。宮台さんが苦しんでいるのは、ローティなら「伝統」と言えば右にも左にもコンセンサスが取れちゃうんですね。ところが、日本にそれに相当するものがあるのかが難しい。それを探すのに苦しんでいらっしゃるのではないでしょうか。

質問者5 アメリカがトリガーを弾いた主要な要因はなんだと思いますか? 

■原因は多層的だと思います。利権問題は現実的にありますが、かといって、悪の除去というものに駆動された面は無視できないと思います。

質問者6 2点質問させてください。ローティの考え方では、リバタニアリズムに対し有効な批判になりうるのか、単なる現状肯定になってしまうのではないかというのが1点です。それから、今回の講演では絓秀実氏の『帝国』理解を割と単純化しすぎてしまって、実はポストモダン、或いはポスト構造主義の問題が無視されてしまうのではないかと疑問です。絓秀実という方は「68年」ということをおっしゃっていますが、そのスタンスからの書評は、実はネグリ&ハート批判でもあったように思いますので、単純に「YES」と言えるのでしょうか。

■まず一点目に関しては、ローティならば、「基礎付け主義じゃないか」で済ませちゃうと思います。それが批判になっているかは別ですが。絓さんの件に関してはそうだと思います。最初に並べて提示しましたが、NOの方とYESの方は位相が確かに違いますね。絓さんほどはっきりと『帝国』が登場したと同時に意見を言った方はいないのでひかせていただいたのですが、それに対してネグリとハートの方はちょっと…書いた時点ではイラクの問題は起こっていなかったのですが、今は後手に回ってしまって、ハーバーマスと同じようになっちゃってますね。ただ、『帝国』という議論は、まだ途切れていないように思います。現状分析として正しいと思うので、アメリカと対照させて考えるべきだと思います。ただ、ネグリとハートが「これはアメリカではない」と言うとき、うまく捉えられていないのではないかと思います。むしろ<帝国>的なものが進行しても、その流れに抗ってしまう<アメリカ>というものを捉えかえして、新たに『帝国』を書き直してほしいと思っています。

最後の質問者(稲葉振一郎) そんなにややこしい話なのでしょうか。ローティのカルチュラルレフト批判は、「そんなことやってると大衆から遊離するぞ、もっと素直に語れ」というだけの話ではないか。それから、ネオコン批判として適切なのは、マイケル・ムーアみたいなバカ丸出しのやり方か、またはあいつらはアメリカを結果的にダメにするアホな奴等だと言うか、そっちの方がひょっとして有効なのではないかと最近思います。ローティのアイロニーに関係させていえば、アイロニーは、ストレートに言うのではなく反発なども想定して別の言い方にしたりするわけですが、ストレートに伝わってしまう部分とアイロニカルに受け取られる場合があります。ただ、宮台さんが示しているように、アイロニーというのはやっているうちに、アイロニーじゃなくなっちゃって間に合わなくなっちゃったりする。多分もう宮台さんは間に合わないとこまで来ちゃって、もうダメだろうと思います(会場大爆笑)。そういうことを考えると、ローティは間に合わないのか、それとももっとベタなのか、それを聞いてみたい。ひょっとしたらベタなんじゃないか。あなたも、2ちゃんなんかを見ると、そこらへんをヤラレているように思いますが。

■ある面ではそう思います。文化左翼批判の面では、かなりベタにキライなんだと言っています。ローティもアイロニーを貫徹できないでしょう。ただ、私はあえてローティの中で、ロジカルに文化左翼批判が出ているのではないかと想定して捉え返してみました。




―了―

 




HOME ▽BACK