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お茶の水女子大学「ジェンダー研究のフロンティア」 プロジェクトD 理論構築と文化表象

講演/セミナー「ホモソーシャリティと近代日本文学」(2003年11月18日火曜日開催)

キース・ヴィンセント(ニューヨーク大学助教授)   報告者 m*m

 

 

 ホモソーシャルとは、男同士の擬似同性愛的な男同士の絆をいい同性愛とは区別される。イヴ・K・セジウィックによってミソジニーとホモフォビック(同性愛嫌悪)に支えられた近代の家父長制、強制的異性愛が明らかとなった。日本には、ホモフォビア(同性愛嫌悪)を要請せずに、女性を排除し男性性を補強する男色の伝統があるので、そのまま無批判に導入するのはもちろん危険だが、しかし日本は近代化を経てホモフォビアになってホモソーシャルを築いている点に着目できる。この概念によって、ゲイとフェミニズムが共通の敵と闘えることができ、ゲイとフェミニズムの分断を超えられる戦略的連帯が可能になる。

 以上が、一般的にホモソーシャルを説明するときに使われる概念であるが、キース・ヴィンセントは、ホモソーシャリティのラディカルな可能性、「ホモソーシャリティの差異化へ」をテーマに講演した。というのも、ホモソーシャルを説明するときは、必ずといっていいほど「ホモセクシュアルとは区別される」と説明される。これはカテゴリーが前提であり、カテゴリー自体が特定の言説化をしてしまう(異性愛者/同性愛者/男/女)。近代のセクシュアリティは、「内在するもの」と考えられてきた。しかし性的指向が個人に内在するという考えは近代の産物である。クイア理論では、セクシュアリティは、間主体的に時間をかけて生産させられるものである。私たちはクイア理論の方で考えていかなければならない(ならないというより、クイア理論の方がオモシロイ)だろう。

 家父長制批判のために同性愛と区別し、同性愛を個人に「内在するもの」としていくこと自体が言説化になってしまう。つまりホモソーシャルとホモセクシャルを区別することで逆にホモフォビアを召還・要請してしまう危険性がある。

 もちろんゲイ=ラディカルというわけではない。しかしだからこそ、欲望をアイデンティティから切りはなす理論が必要である。性的実践はアイデンティティの確認ではなく、パフォーマンスとして捉え、どう理論レベルで考えていくかが、クイアスタディーズの実践である。

 

<ホモソーシャリティの差異化へ>

 

この講演では、ホモソーシャルを一般的概念とは違い、歴史性と同時代的機能や、権力関係だけでなく、欲望・快楽を同時に考える概念として考えていき、ホモソーシャリティのいくつかのモデルを提示する。キース・ヴィンセントは、ホモソーシャル概念に切り離されてしまった欲望を取り戻そうと試みている。テキストは、夏目漱石『行人』とフロイト「自伝的に記されたパラノイアの一症例に関する精神分析的考察」(『フロイト著作集第9巻』)を使っていく。

欲望の生産は、ホモソーシャルの三角形から生成される。これは、支配的であると同時に撹乱させる可能性もある。『行人』の一郎はロマンチック・ラヴの持ち主で、「自然が醸し出した恋愛」を求め挫折する。全ての欲望は、三角形で「他者」を通して生じるのだから、「自然が醸し出した恋愛」は存在するはずがないので一郎は挫折するのである。欲望の生産はホモソーシャルの三角形からなるのだから、ホモセクシャルとホモソーシャルの区別はなく混ざり合っている。異性愛的、同性愛的愛情(区別されたカテゴリーによる「内在する」欲望)は存在しないのである。

 

A.家父長制の構造としてのホモソーシャリティ

 『行人』では、長野家から女中のお貞さんを佐野家に嫁がせる(=女を交換する)ことによって家父長制を維持しようとする。このことを森本隆子「行人論」では、二郎は、女の交換や結婚など女のセクシュアリティが亀裂から顔を出すとき、異性愛の生々しい女のセクシュアリティが怖くて、男の関係に回避すると分析している。また、二郎と三沢の関係は、「あの女」を媒介にした男同士の絆である。大橋は、ホモソーシャルの説明を「男二人は、女一人を求めて競争関係に入る。だがこうした場合、どちらかの男が身を引く」と述べている(「ホモフォビアの風景:ホモソーシャル批評とクイア理論の現在」『文学』季刊六・一,一九九五・一)。これを『行人』でいえば、二郎と三沢の関係は、二郎による(異性愛の)欲望の回避である。

 しかし、森本の場合、女の生のセクシュアリティや二郎のセクシュアリティを言説以前のセクシュアリティがあるかのようで、本質主義の罠に陥る可能性があるので、欲望の生産のされ方に着目していくべきだろう。また大橋が言うような二郎と三沢の関係を考えると、二郎自身「あの女」を媒介にした二人の関係を「中心の欠いた興味」「性の争い」があることを自覚している。「中心を欠いた興味」とは、欲望の流れが、欲望の起源なく人から人へ伝わることを意味し、二郎はそういう欲望の生産のされ方を考察している。一方、三沢は、「あの女」が似ていたという昔の「精神病の女」の恋を、ロマンチック・ラヴとしては捉えず精神病=パラノイアとして捉えている点が興味深い。

ホモシャリティは、単なる家父長制批判として捉え欲望を回避するのではなく、欲望も同時に考えること、つまり欲望の生産としてのホモソーシャリティ、それをパラノイアからを考えることができないだろうか。フロイトのテキストを使いながら、次のホモソーシャリティのモデルBで見ていく。

 

B.抑圧(昇華)の機制としてのホモソーシャリティ(あるいはパラノイア)

 フロイトの「自伝的に記されたパラノイアの一症例に関する精神分析的考察」は、シュレーバーという男性パラノイア患者が妄想を書いた本を勝手に読み分析したテキストである。シュレーバーは、自分が女になって神とセックスする妄想を持っている。シュレーバーは、そのファンタジーに抵抗し、同性愛的リビドーにも抵抗するが、フロイトは抑圧された同性愛がパラノイアの原因だと分析する。フロイトは、「同性愛的リビドー」つまり同性愛的欲望と欲望が非言説的に存在するかのように書いてはいるが、これは、ホモソーシャルティの理論として書かれていると考えることが出来る。ホモフォビックによって抑圧された同性愛は、パラノイアになるのである。

(以下レジュメ引用)

パラノイアの主要形式、すなわちすべてのパラノイアの妄想が、「私=一人の男性」が、彼=他の一人の男性を愛する」という命題に対する様々な反対意見として表すことができるということ、さらにはこれらの形式が、このありとあらゆる表現型を生み出すということである。」

それには次のパターンがある。

(動詞の否定)迫害妄想:「私は彼を愛さない――――いや、彼を憎む――――それは彼が私を迫害するからだ

(目的語の否定)被愛妄想:「私は彼を愛しているのではない―――――私は彼女を愛しているのだ――――それは、彼女が私を愛しているからだ」

(主語の否定)嫉妬妄想:「あの男を愛しているのは私ではない―――――彼女こそあの男を愛しているのだから

(命題全体の否定):「そもそも私は、愛するということをしないし何人をも愛さない

以上引用した全てのパラノイアの妄想パターンは、同性愛「私が彼を愛する」という命題の否定であり、これら全てのパターンは、ホモソーシャリティにあてはまるのではないだろうか。

『行人』の一郎の狂気は、この4つのパターンのパラノイアといえる。例えば、お直の貞操実験を二郎に頼むのだが、一郎と二郎の間には、禁止されている「同性愛的リビドー」がある。逆に言えば禁止されていることに欲望は生産されるのである。

 

C.文明の基盤としてのホモソーシャリティ

フロイトは、パラノイアにならなければ、つまり同性愛的リビドーを昇華することが出来れば、偉大な業績が残せると論じる(フロイト、p.p328‐9)。つまり文明の基盤としてのホモソーシャリティである。ヴィンセントは、これを、パラノイアの原因は「同性愛」と考えるのではなく、パラノイアの原因はホモフォビックと読み直すのである。

 

D.同一化/欲望装置としてのホモソーシャリティ(あるいは『こころ』的三角形)

これは、飯田裕子がジラールを引きながら論じる欲望のモデルを指す。

(レジュメ引用)

よく知られているように、ジラールは主体−媒体―対象の三角形において、あたかも自発的な欲望にみえる主体の対象に対する欲望が、媒体(他者)の欲望の模倣であると指摘した。(『こころ』は)二人の男が近似した存在として語られ、一方の男がもう一方の男の感情にたどり返す、つまり同一化していくドラマにおける三角形は、あからさまな模倣的欲望に支えられた三角形として読みうるテキストといえる。―――――『浮雲』や『それから』にみられる補完し合う異質性によってつくられた三角形は、ジラール的な三角形にはならない(飯田裕子『彼らの物語』p.p211−2)。

 

『浮雲』が文三と昇という対照的な人物が、お勢を巡るライバル関係にあることが明確であるのに対して、『こころ』的三角形の欲望のモデルは、欲望の対象が異性、同一化が同性に向かう。そこでは、ジェンダーが他の差異よりも重要視され、三角形は狭く、真空管のようになり、男同士は競争関係を認識せず同一化していく『こころ』的三角形になる。個人同志の同質化した表象は、三角形を見えなくし、個人の欲望として還元され心理的・内面化された問題―ジェンダーの重要視になっていく。

 

「ホモソーシャリティの差異化」を考えると、ホモソーシャルの二つの意味が考えられる。Aの家父長制権力と、欲望の生産を含めたAからDモデルの二つである。森本は、ロマンチック・ラヴを批判しつつも、一郎は近代家族から排除されるゆえにホモソーシャルを批判していると論じている。女性の性的「他者」と向き合う「近代的自我」のヒーローで、二郎は、ホモソーシャルな人物像として論じる。しかし、欲望の生産を含めたホモソーシャルから考えると、一郎は古い家を維持するが、二郎はセクシュアリティが以下に生産されているかを考察する人物で、新しい近代家族として抵抗しているといえる。また一郎は、ホモフォビアを原因とするパラノイアである。

 

最後に、一郎とシュレーバーの比較を考えてみたい。

二人に共通しているのは、パラノイアであること、手紙のプロット(『こころ』との類似)である。

シュレーバーは妄想による快楽を正当化するために神や宇宙を必要としている。シュレーバーにとって快楽は回復への道である。一郎は、命題全体の否定をする。命題全体の否定は、自分しか愛さないという自己愛(ナルシシズム)であり、神を信じることは出来ない。Hさんの手紙には、芸術品を所有し所有され支配される快楽という一郎の狂気に対する処方箋を出す。二人の違いは身体の境界線に対する態度の違いである。

シュレーバーは、神による挿入にトラウマを抱えるが、快楽に変えることで回復していく。一方、一郎は、他者との境界線がわからなくなっている。そのため、貞操実験を行うなど他人の心を覗き込もうとし境界線を気にする人物である。所有する・されるの同時性により、境界線を犯されることを快楽として得るという、Hさんが出す処方箋を一郎は受け入れることができないため回復できないのである。

 

【質疑・意見】

1・ホモソーシャリティで女性同士の関係はみえなくなるのでは?→『明暗』に女性同士のホモソーシャリティがいえる。しかし、権力としてとらえると男性のモデルより不均衡、非対称性がある。欲望の生産は、同一化の面から考えられるかもしれない。

2.多様な欲望の生産を考えると、異性愛も同性愛の命題の否定の上に成り立つ。また不安定な命題の上に成り立つ異性愛といえないか。

 

【補足】

テキストに使ったフロイト「自伝的に〜」の日本語訳は、いわば翻訳者にフロイトのいう「検閲」が掛かっていて興味深い誤訳が見られるので一部紹介する。以下下線にし()を正しい訳にして引用。

 

  その反面神は、世界秩序に敵うような魂の存在条件を維持するために、私に絶え間なき性的

享受を要求する。そして魂の快楽を豊富に発展させることによって、神にその享楽をお返しする(提供する)のが私の使命である。その際私が感覚的な享受を幾分失うこと(貰うこと)があっても、私は、長い間自分に課せられてきた法外な苦しみと禁欲に比べればそれはごくわずかな犠牲にすぎない(ごほうびをもらってしかるべき)と思うから、喜んでその損失(ごほうび)を、その享楽と一緒に引き受けるつもりである。

 

女になったシュレーバーが自分とセックスしていることをさしているところを「つまり性的抱擁の中で自分と一緒に寝ている相手の女と絶え間なく弄んだり」としている。この翻訳によって、シュレーバーの快楽が減らされ、シュレーバーが女として女と寝ているはずが異性愛化している。



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