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お茶の水女子大学「ジェンダー研究のフロンティア」 プロジェクトD 理論構築と文化表象

講演/セミナー「セクシュアリティ研究と文学研究」(20031121日金曜日開催)

         キース・ヴィンセント(ニューヨーク大学助教授)   報告者m*m

 

 セクシュアリティは、欲望と言葉のあいだ、つまり欲望の生産は、言葉を介した他者との関係にある。日本近代文学において、言文一致は、国家と近代自我のレベルで語られてきている。国家のレベルでは、国民に共通した言語空間を作るため、近代自我のレベルでは「内面」、欲望を表すためである。地の文と「会話」が一致する言文一致は内容に注目できるようになり、柄谷行人がいうように「内面」がつくられていく。

 1885年から86年に書かれた坪内逍遥『小説神髄』は、言文一致の理論化である。『当世書生気質』は理論の実践で、一般的には理論がうまく反映できず、前近代が残っているとして失敗作といわれており、弟子の二葉亭四迷『浮雲』で言文一致が成功したといわれている。しかし、昨今では亀井静雄(1)Atsuko Ueda(2)らによって、当時の言説空間がどういうものであったかなど読み直がされている。

 『小説神髄』で逍遥は、「小説は美術である。人の心を描く。作者が意見や説教をしない」ということを述べる。「人情」が小説の内容で、小説家は「心理学者」(当時はあまり使われていない言葉である)のように人間を描く。そして、儒学のように説教をするのとは違い、作者は顔を出さないということである。近代日本文学は「内面性」への転換といわれている。

 逍遥は、当時、自由民権派が読み書きする漢文調の‘政治小説’(立身出世、ホモソーシャルで女性嫌悪的な内容)に反発して「人情」を目指した。逍遥が「人情」を強調している意味は何であろうか。逍遥は「人情」を「おとこおなごの性愛のごとき」、即ち男女の愛として考えている。つまり、小説=異性愛のジャンルとして誕生しているのである。

 当時は、「恋愛」は、男色の伝統も残り、色の対象は男でも女でもありえた。また、西欧の性科学によるホモフォビック(=同性愛嫌悪)も入ってきていない。では、なぜ逍遥は男色を「人情」として考えなかったのか。なぜ文学の誕生が、異性愛、異性愛主義と同時発生したのだろうか。形式、言語、内容の面から考えることができるだろう。

 

@ 形式

男色文学は、言文一致でかかれおらず、文学的で性欲よりも言葉を重視し言説的である。例えば十七世紀には、北村季吟が「いわつつじ」という男色題材の句を集めた句集を出している(アイデンティティ・ポリティックスとして考えると世界初のゲイ・アンソロジーであるように見えるが、ポール・シャロー(?)が指摘するように、男女の恋の歌を詠んだ後、バラエティを持たすために男色を歌うときの俳諧連歌のマニュアルの一種である)。ここで挙げられている句から性的欲望が言葉を通して生成していることがわかる。小森陽一によると、「男色文体」は、馬琴調で、大和言葉と漢言葉を混ぜることで二つのスタイルを作っていると指摘されている(ジム・ライキッド(?)も同様の指摘)。私的=女性的/公的=男性的な文体の両方を行き来し、使い分けるのが「男色文体」の特徴なのである。例えば、山田美妙は、自称「二世馬琴」と言い、85年『竪琴草紙』などを馬琴調の男色文体で書いている。一方で、87年になると『武蔵野』や『胡蝶』は異性愛の話を言文一致で書くようになる。

男色文学は、男色によって知識交換し男の絆や男性性を強化するので、ミソジニーではあるがホモフォビックではない。性的「他者」の恐怖があまりなく、「他者」による危機感を及ぼさない。男色にとってジェンダーはパフォーマティブである。

ところが、言文一致になると性差が文体によって示されなくなるため、そのことが、問題化されてくる。1887年当時、文部省森有礼大臣は「男女の文体をいかに異にするか」をテーマに意見を公募している。その結果、文体と女性教育に関する雑誌『いらつめ』の編者による、文体は一致しても、男と女は同じというはずはない、男女の性は違うから、内容も違うので文体が一致しても異なる、という意見が採用される。これは革命的といえる。文体一致により男女同じもの、共通言語を持つようになり、表面(=文体一致)ではなく、中身に男女の違いを求めたこと、その上、その違いを本質的な身体に基づいた性差に求めたのである。

 

A 言語

言葉が欲望の生成をすることは、江戸期においては、隠蔽されない。「遊び」であり内容を持たない空っぽの記号である。言語や言説が欲望の生成にどのように機能しているかよく見える。しかし、言文一致になると、異なってくる。

 

B 内容

 ホモソーシャリティの当時のモデルを考えると、男色から、同性愛への過渡期、間といえる。例えば、Ayako Kano(3)の研究は20世紀初め、新劇において女優不足から女性のように振舞う俳優が登場し、ジェンダーをどう扱うか問題となっていることを分析している。そこからいえることは、セクシュアリティの管理は見られるものの、異性愛を強調せずに、ホモソーシャルが機能しているというホモソーシャリティの過渡的な状況である。同じように、山田美妙の『武蔵野』では、男性っぽく振舞う女が登場している状況から、『胡蝶』では女性っぽい女性に変わり、女性の裸は、怖い女性のセクシュアリティの表象として登場する。この時期は、異性愛文学の誕生であり、同時に同性愛文学の誕生である。ただし、そこでは同性愛者は、ブッチ(男らしい男役割)として振舞っている。

 逍遥は、「欲でたちゆく世の中」と述べている。欲とは、小欲(性欲)と体欲(野心、世の中を良くする)の二つをいう。逍遥は、小欲の完全な抑圧ではなく、どうやってうまく人を欲望させつつ、しかし性が危険なものにさせないかを考えている。そして、小説によって、欲を抑制して良い野心に変えるよう学ぶと述べている。そのため、あからさまに欲を表にあらわさない、そのためにおとなしくなっている人を描写するのが小説ということになる。

 逍遥の『当世書生気質』の中には、桐山勉六という男色家が登場する。彼は、腕力主義で単純な人物である。彼は、男色は女色よりましで、男同士知識を交換し合い、国家に奉仕できると言う。ここから男色自体がホモソーシャルを支えていることがわかる。これを聞いた文弱な友人はアンチ・ナチュラルと批判すると、理論上はそうであると返答する。桐山がこのような正当化をしなければならないのは、江戸期であれば、正当化することなく、文体を行き来することで、男色を実践するための言葉があったのに対し、当時には男色のための言葉がなくなっていたからである。さて、桐山と対をなすのが、鴎外の『ヰタ・セクスアリス』の男色の古賀である。桐山が硬派なら、古賀は、軟派であるが、いずれにしても極端な人物像である。桐山は、男色を国家奉仕だと正当化し、古賀は、露骨な性の持ち主である。ところが、このような極端な性質をもったものたちは近代文学の主人公にはなれない。なぜ彼らは男色家は主人公になれないのか。男色文学が近代文学になれないのはなぜか。

/女、性/政治を使い分け交換する文体がないと男色文学はできなくなっていく。過渡的なホモソーシャリティが強制的異性愛になり、個と個の交渉が一人の人間の内面において行われる。外面と内面が同じ言葉で表現されるということは、心理的問題になるということであり、Public/Praviteの境界線の管理が、心理的問題になっていくということであり、近代文学の主人公は、心理を持つ人、「近代的自我」の異性愛男性でなければならない。だから『ヰタ・セクスアリス』では神経的な男性の金井が主人公になる。

以上が講演内容である。質疑応答は以下に一部紹介する。

1.言文一致と逆行したかのような樋口一葉について古い言葉で書くこと自体が女性の本質というやり方で日本的代表、カノンに成り得た。一葉の「女性らしさ」を映し、言文一致が増える中で言葉自体に対するフェティッシュとして機能している。

2.前近代における男色の言説の射程について。言説の射程は難しい問題。男色は、武士道の世界から出てきているので武士が登場した以後とはいえるが・・・。

3.鴎外『ヰタ・セクスアリス』と逍遥『当世書生気質』は時代が異なるのではないか。鴎外の頃には何が自然か不自然かを決める性科学の導入がされており、用語も「性欲」「性欲の歴史」など使われるsexについての本である。

4.文学研究とセクシュアリティ岡倉天心と小山正太郎「書は美術ならず論争」(4)をフェティシズム=セクシュアリティの問題として考える。物質性とセクシュアリティの間を交渉する様が見える。

5.翻訳・性科学の導入の影響について日本が、性科学を導入したからといってホモフォビックになったわけではない。心理的、認識的基盤、近代化の基盤が用意されていたはずである。近代化を経たところはホモフォビックであり、近代化のプロセスとして、異性愛主義がある。

6.20世紀初め、イギリスにおいても同様に金井や桐山に共通する人物像が登場している。内面=異性愛でないものを書くとき、ある種何も考えないゲイが登場するのではないか。桐山は硬派でインテリで政治的であり、それが男色家の特徴である。桐山は、逆に軟派は何も考えていなくて、酒を飲み女遊びをしていると批判する。明治では、知的に悩む人は、『浮雲』でいえば文三のような異性愛者で、近代文学の主人公になる。単純な気質で悩まないで政治参加するのが男色家である。行動する男色家と、考えないゲイ(ジード、落ち着いていない、エキゾチックなゲイ)が結びつくのは、三島由紀夫を待たねばならない。




 



(1) 亀井静雄『「小説」論 : 『小説神髄』と近代』岩波書店, 1999

(2) Atsuko Ueda(上田貴子)Meiji literary historiography : the production of "modern Japanese literature"University of Michigan, 1999.

(3) Ayako KanoActing like a woman in modern Japan : gender, performance, nation, and

 the roles of Kawakami Sadayakko and Matsui SumakoCornell University, 1995

Acting like a woman in modern Japan : theater, gender, and nationalismPalgrave, 2001

(4) 1882(明治15)年、『東洋学藝雑誌』掲載の書画を美術とするか否かの論争.



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