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青山真治、絓秀実、守中高明 『すでに老いた彼女のすべてについては語らぬために』 報告者 F&m*m
それは「母の批判」という結論を迎えた―
■12月19日早稲田大学で、青山真治監督作『すでに老いた彼女のすべてについては語らぬために』(2000)の上映会&青山真治(あおやましんじ)氏、絓秀実(すがひでみ)氏、守中高明(もりなかたかあき)氏のトークセッションが行われました。その模様をレポートします。
■構成は、作品上映(51分)しその後トークセッション。作品は、大まかにいえば大逆事件の周辺のテキストを使った天皇(制)についての映画となるでしょうか。冒頭から中野重治「五勺の酒」がそれとわからぬまま朗読され、大逆事件で拘束された菅野すが子2回目調書、夏目漱石「思い出すことなど」、中野重治「雨の中の品川駅」の朗読があり、それらにイメージされる/されない映像の断片、唐突に挿入される西暦の数字や言葉などが映しだされる作りになっています。また音楽もロックからノーノまでの幅広いセレクトがされており、一見したところでは―守中氏の言葉を借りて―「得体が知れないけど凄いものを見た」という感じになるでしょうか。
■そしてトークセッションがはじまりました。まず青山氏がこの映画は絓氏・渡部直己氏の天皇論に触発されたことが製作の一因である(もう一つ映画学校で教えていて実際に作る必要があった、と)。絓・渡部の天皇論を同一化するなという批判を受けたが、映画作家は差異より類似に惹かれる。その目から見て絓・渡部は宮川淳的に(どういう意味だろう?)似ている。だからそう撮ったというような事をいいました。それを受け絓氏がその話は得心がいった、この間も近代日本文学会で大逆事件について扱うのに俺にも渡部にも何の話もない、だから乗り込んで半分位ぶちこわしてきたんですが(しかもここの大学の教育学部にも漱石研究者いますが、近代文学研究者はそれに反論すらできない。)、なぜか渡部とはやっちゃうんですよね、と発言しました。
■守中氏は極めて礼儀正しい喋り方で、朗読されたテキストが何か、写された西暦には何があったか(大逆事件、地下鉄サリン事件・・)を解読して丁寧に作品の輪郭を示してくれました(おそらくトークセッションの司会、まとめ役的な役割を守中氏は果たして、質疑でも質問者に懇切に教師のように答えていました。だからこの大変なイベントを主催した尊敬すべき学生が守中氏を呼んだ理由を聞かれ「ついでじゃなくて・・」と言ってしまい、絓氏に「ついでと言ってるようなものだ」と言わせてしまったのは、やはり失礼だったなぁと余談ながら思いました)。
■そこから映画と供に絓氏の『〈帝国〉の文学』『革命的な、あまりに革命的な』についての議論が展開されました。青山氏が『革あ革』について解説しながら(「これも試験に出るんですけど」と言っては微妙な笑いをとっていました)自分と作品との関わりを話し、作品に引用したテキストや音楽や映画監督(作品の最後に様々な映画監督(一番長く写ったのは黒沢清氏?)の顔が写される)、それを全て知っている人は非常に少ない。だから全て知っている自分は「オタク」でマイノリティだ、と述べそのようなマイノリティ意識と『革あ革』で提唱されている「68年」との接点を見ようとしていたようでした。
■守中氏は、「不可視なもの」としての映像表現とimaginaryな天皇制に沿いながら問いを発しました。青山氏は、挿入された言葉‘To have not to have(持つもの、持たざるもの)’‘visible,invisible(可視、不可視)’を、映像上、漱石を‘visible=持つもの’管野スガ子を‘invisible=持たざるもの’に重ね、見えないものはジャンクに密接しており、他の者の享楽を受け付けない、そういうジャンクを開いていこうとしていると答えました。また挿入された言葉‘terorist’を‘-eros’に書き換えた表現に対して、大逆事件とエロスの関係を守中氏が問うと、すが氏は菅野すが子の肖像写真が写されていたが、菅野は、当時のアナーキスト達の中「娼婦」として扱われてきた。しかしそこで菅野はそのような性的なもの、官能性を拒否しつづけたのであり、そこが重要な所だ。それで「すでに老いた〜」では菅野の写真はある官能性をたたえてしまっているのではないかと疑義を提した。青山氏は、自分は菅野の肖像写真の現在に唯物論的に驚いていたから、カメラマンの田村正毅が菅野の写真を撮りながら「色っぽいねー」と言ったのに驚き「どこがだよ!」と言ってたんですが、その時の田村正毅の言葉を気に留めておけばよかったと答える一幕もありました。
■最後の方で青山氏が天皇とは父のメタファーで語られるが、むしろ母的ではというような視点を出し、絓氏が賛成して、漱石の「思い出すことなど」からフロイトを下敷に「大逆事件とは天皇が慈愛に満ちた父と思われていたのが残虐な母であったのが露呈した事件だった」と定式化しました。そこで青山氏は例えば小津も武もマザコンであり、どうしても「母」だけは批判できない、また日本の表現者で母自体を批判した表現者はいなかったのではないかという、極めて刺激的な論点を提出しました(これをふまえると後で青山氏自身が種明かししたように「すでに老いた〜」という題における「彼女」とは「天皇」であり「母」である。つまりこの映画自体が「母」批判である?ということがわかりなお衝撃的でした)。
■守中氏は、批判対象が母であるのは日本の特殊を感じ、国民化されない天皇や被差別部落のタブーの問題と接続しました。それに対し、絓氏は日本的母性は、大逆事件によって母性的権力がむき出しに機能したと指摘しました。青山氏は差異が見えないにもかかわらず、差別があるという問題を挙げ、スラッシュを引くのは母で、スラッシュを外し母の否定する表現を指向している困難を述べました。最後に青山氏は「すでに老いた彼女」とは天皇=母であるだけでなく、「68年」をも指すと述べました。この後簡単な質疑があって三時間以上のこのイベントは終りました。
■レポートした者の知識と理解力の問題で、内容について穴だらけなものになってしまいましたが、雰囲気の一端を伝えられることを願います。感想としては、最もビビットに元気だった絓氏の映画など、どの分野に関してもきちんと自分の腰のきまった視点からの洞察を成していることに驚いたのと、何より青山氏の知識人(?)としてのポテンシャルに圧倒されました。うまくは言えませんが、時に過激だったり攻撃的に見える発言が、内実をともなった思考から必然性をもって紡ぎだされたものであるのが実感できるただずまいでした。「母」自体の批判、という論点について考えていこうと思わせられました。